みたかデジタル平和資料館戦争の記憶と平和への願いを次世代が受け継ぐために

歴史・戦跡・シンボル

三鷹の戦争遺跡

 三鷹には戦時中、中島飛行機三鷹研究所や日本無線などの軍需工場があり、「飛行機工場の町」と呼ばれる「一大軍需工業地帯」に属していました。市内には現在も、防衛の基地であった調布飛行場の周りに、戦闘機を格納する掩体壕や高射砲陣地跡などの「戦争遺跡」が残り、戦争の記憶を今に伝えています。

 三鷹市では、毎年3月に、三鷹市内の戦跡を訪ねるフィールドワーク講座を開催しています。講座の詳細については、以下のページをご覧ください。
三鷹市内の戦跡を訪ねるフィールドワーク講座

三鷹市内の戦争遺跡

三鷹市の戦跡マップ。調布飛行場周辺に戦争遺跡が残っている。

調布飛行場入口付近の写真
調布飛行場門柱

 昭和16年の調布飛行場竣工時、正門として左右に設置された調布飛行場門柱が現在も残っています。戦時中は「東部第百八部隊」等と厚い大きな板に墨書きされた表札が掛けられていました。
 調布飛行場は昭和14年に東京府が調布町・三鷹町・多磨町にまたがる広大な敷地(畑・家屋・寺など)を半強制的に買収して造られました。昭和16年12月の太平洋戦争開戦後、陸軍が利用することになり、首都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。戦況が悪化すると、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地になり、帝都防空の最重要拠点となりました。
 戦後は、米軍飛行部隊による進駐があり、調布飛行場の西側一部は進駐軍(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設されました。

掩体壕の写真
掩体壕(えんたいごう)

 武蔵野の森公園には、「大沢1号」「大沢2号」と名付けられた掩体壕が2基残っています。
 掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なくなった貴重な飛行機を保存するためでした。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和19年頃から、コンクリート製、土塁製の掩体壕が一帯に約60基造られました。

高射砲台座の写真
高射砲台座

 「椎の実子供の家」の敷地内に、4基の高射砲台座(高射砲が設置されていた台座)が残っています。調布飛行場を一望できる見晴らしの良い丘となっているこの一帯に、昭和18年9月、敵の戦闘機から調布飛行場等を守るために高射砲陣地が置かれました。当時は、「八八式7センチ野戦高射砲」6門が備えられ、約190人の東部一九〇三部隊(昭和20年6月からは高射砲第一一二連隊)が駐屯していました。昭和20年2月17日、中島飛行機武蔵製作所を攻撃した米軍の戦闘機が、この高射砲陣地にも襲来し、戦闘の後4人の隊員が戦死されています。

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