太宰治と三鷹

三鷹が登場する作品

太宰治は、自宅の間取りを小説のなかに使うなど、三鷹の「陋屋」暮らしをさまざまに素材にしています。薔薇の花を植え家庭菜園を試み、また、自宅を仕事場として若い文学志望者などとの交流の場としたことなどは、複数の作品に見出すことができます。
 また、社会や時代と供に三鷹の地域性をとらえることもしています。鉄道と駅、戦中・戦後の街と人々、井の頭公園など名所についてなど、独自な視点で描かれているのです。
(約70作品ほどの小説、随筆に、田園の街から都市化されていく三鷹を読み取ることができますが、紙面の都合上そのごく一部だけを収録します。)


小説に使われた三鷹の家の間取り

太宰治は、小説、随想を問わず三鷹の「陋屋」暮らしの「私」を繰り返し書きます。「東京八景」「おさん」「桜桃」には、玄関脇の三畳間での食事の場面があります。北側の玄関を開けてすぐの六畳が太宰の書斎兼居間で、襖で仕切った隣が四畳半、計三間に、縁側、お勝手、風呂の付いた十二坪半ほどの平屋に小さな庭があり、玄関の外に井戸があった様子は、美知子夫人や亀井勝一郎など友人知人の回想からも知ることができます。
この家の間取りは、男性の「私」ではなく、編集者の夫を持つ女性の「私」が語る形態の小説「おさん」にもそっくり使われています。(ただし、実は、初期作品「彼は昔の彼ならず」(昭和9年)に、この家によく似た間取りの借家に住む男が書かれています。当時のありふれた家だったのでしょうが、太宰の現実が自作に近づき、小説の続きを生きたかのようにも見えるのです。)

太宰旧宅の写真
太宰治宅の玄関(当時)

(学生が)なぜ私のところへ来るのか、気易いからである。それ以外の理由は、ないようである。玄関をがらっとあけると、私が、すぐそこに座っている。家が狭いのである。

「困惑の弁」(昭和15年)

私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」

「東京八景」(昭和16年)

東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、神妙に小説を書いて、二年後には女の子が生まれた。

「帰去来」(昭和18年)

「井戸は、玄関のわきでしたね。一緒に洗いましょう。」
と私を誘う。
私はいまいましい気持で、彼のうしろについて外へ出て井戸端に行き、かわるがわる無言でポンプを押して手を洗い合った。

「女神」(昭和22年)

たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落とすほど淋しく、・・・・中略・・・・
うちで寝る時は、夫は、八時頃にもう、六畳間にご自分の蒲団とマサ子の蒲団を敷いて蚊帳を吊り、・・・・・中略・・・・・
私は隣の四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。 ・・・・・中略・・・・・・
玄関前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。

「おさん」(昭和22年)

夏、家族全部三畳間に集り、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、・・・後略・・・

「桜桃」(昭和23年)