昭和戦前の井の頭公園近くの住宅地は、区内に住む方の別荘が点在していました。
太宰は名所・観光地である井の頭公園を多くの作品に登場させています。
頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・中略・・・万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。・・・中略・・・井の頭公園の池のほとりに、老夫妻二人きりで営んでいる小さい茶店が一軒ある。私は、私の三鷹の家に、ほんのたまに訪れて来る友人たちを、その茶店に案内する事にしているのである。
「乞食学生」(昭和15年)
・・・渓流のほとりの一軒の茶屋にも、父祖数代の暗闘があるだろう、茶店の腰掛一つ新調するに当っても、一家の並々ならぬ算段があったのだろう。・・・中略・・・風景などは問題ではない。その村の人たちにとっては、山の木一本渓流の石一つすべて生活と直接に結びついている筈だ。そこに風景はない。日々の糧が見えるだけだ。 素直に、風景を指さし、驚嘆できる人は幸いなる哉、私の住居は東京の、井の頭公園の裏にあるのだが、日曜毎に、沢山のハイキングの客が、興奮して、あの辺を歩き廻っている。・・・中略・・・市民とは実に幸福なものだと思う。悪業の深い作家だけは、どこへいっても、何も見ても、苦しい。気取っているのではないのだ。
昨年の九月、僕の陋屋の玄関に意外の客人が立っていた。草田惣兵衛氏である。
「静子が来ていませんか。」・・・・中略・・・・
「家は、ちらかっていますから、外へ出ましょう。」きたない家の中を見せたくなかった。
「そうでうね。」と草田氏はおとなしく首肯いて、僕のあとについて来た。
少し歩くと、井の頭公園である。
「水仙」(昭和17年)
一ばん近くの汚い茶店にのこのこはいって行って、腰をおろす。
「何か、たべたいね。」
「そうですね。甘酒かおしるこか。」
「何か、たべたいね。」
「親子どんぶりのようなものが、ないだろうか。」老人の癖に大食なのである。
・・・・中略・・・・
また立ち上がって、すたすた歩く。先生には、少しも落ち着きがない。中の島の水族館にはいる。・・・中略・・・
「やあ! 君、山椒魚だ! 山椒魚。たしかに山椒魚だ。・・・中略・・・」
「黄村先生言行録」(昭和18年)