太宰治と三鷹

三鷹が登場する作品

地域の特性をとらえる

太宰は、「富嶽百景」で再生を期した地、山梨を描き、「東京八景」で学生時代から住んだ東京を書き、「津軽」では故郷の風土と人情をたどります。故郷の次に長く住んだ三鷹については、総括してひとつの作品に扱われることなく終りました。
ですが、三鷹に住む前の作品「ダス・ゲマイネ」には、ヴァイオリンケースを抱えた三鷹の地主の息子が登場します。大きな農家のある東京近郊、三鷹の地域性をとらえての虚構です。戦前はのどかな田園に家が建ち始め、戦中は軍需工場で栄え、戦後は、小さな映画館ができて屋台が賑わった三鷹は、太宰のそのときどきの小説に書き留められているのです。

道路の遠くに三鷹駅を望む写真
中央通りと品川用水(現・さくら通り)
との交差点 正面は三鷹駅
(昭和22年頃 下連雀3丁目)

言い忘れていたが、馬場の生家は東京市外の三鷹村下連雀にあり、彼はそこから市内へ毎日かかさず出て来て遊んでいるのであって、親爺は地主か何かでかなりの金持ちらしく、そんな金持ちであるからこそ様様に服装をかえたりなんかしてみることもできるわけで、これも謂わば地主の倅の贅沢の一種類にすぎないのだし――・・・後略・・・

「ダス・ゲマイネ」(昭和10年)

私が九月のはじめ、甲府から此の三鷹の、畑の中の家に引越して来て、四日目の昼ごろひとりの百姓女がひょっこり庭に現われ、ごめん下さいましい、と卑屈な猫撫声を発したのである。・・・中略・・・あたしら、ここの畑の百姓でございますよ。こんど畑に家が建つのですよ。薔薇を、な、これだけ植えて育てていたのですけんど、家が建つので可哀そうに、抜いて捨てなけりゃならねえのよ。もったいないから、ここのお庭に、ちょっと植えさせて下さいましい。

「善蔵を思う」(昭和15年)

私は今では、完全に民衆の中の一人である。カアキ色のズボンをはいて、開襟シャツ、三鷹の町を産業戦士のむれにまじって、少しも目立つ事もなく歩いている。けれども、やっぱり、酒の店などに一歩足を踏み込むと駄目である。産業戦士たちは、焼酎でも何でも平気で飲むが、私は、なるべくならばビイルを飲みたい。産業戦士たちは元気がよい。

「作家の手帖」(昭和18年)

東京は、いま、働く少女で一ぱいです。朝夕、工場の行き帰り、少女たちは二列縦隊に並んで産業戦士の歌を合唱しながら東京の街を行進します。・・中略・・東京の街を行進している時だけでなく、この女の子たちの作業中あるいは執務中の姿を見ると、なお一層、ひとりひとりの特徴を失い、所謂「個人事業」も何も忘れて、お国のために精出しているのが、よくわかるような気がします。

「東京だより」(昭和19年)

十二月のはじめ、私は東京郊外の或る映画館、(というよりは、活動小屋と言ったほうがぴったりするくらいの可愛いらしくお粗末な小屋なのであるが)その映画館にはいって、アメリカの映画を見て、そこから出たのは、もう午後の六時頃で、・・・中略・・・駅の近くの盛り場に来た。・・・中略・・・うなぎ屋の屋台の、のれんをくぐった。・・中略・・(屋台の奥の紳士が)だしぬけに大声で、「ハローメリイクリスマス」と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。

「メリイクリスマス」(昭和22年)