太宰治と三鷹

三鷹が登場する作品

仕事場である自宅での交流

戦後、疎開からもどってきてからの太宰は、子供が三人いる自宅に訪問客を迎えることを避け、三鷹駅前付近に仕事部屋を借りて執筆しました。若松屋といううなぎ屋を連絡係に頼んで、来訪者と会っていたことは知られています。
けれども、入居の昭和14年から戦中までの数年間は、下連雀2丁目の自宅に出版関係者や友人、読者、学生などがよく訪れていました。様々な訪問客に戸惑いながら、家庭であるよりは仕事場である自宅を拠点に人との交わりを大切にしていたのです。

(雑誌社の人が)私の家は三鷹の奧の、ずっと奧の、畑の中に在るのであるが、ほとんど一日がかりで私の陋屋を捜しまわり、やあ、ずいぶん遠いのですね、と汗を拭きながら訪ねて来る。

「鷗」(昭和15年)

・・・・(Y君との議論の)翌る日、起きて、ふたりで顔を洗いに井戸端へ出て、そこでもう芸術論がはじまり、・・・朝ごはんを食べて、家のちかくの井の頭公園へ散歩に出かけ、行く途々も、議論であります。・・・中略・・・
私の家の小さい庭は日当たりのよいせいか、毎日いろんな犬が集まって来てたのみもせぬのに、きゃんきゃんごうごう、色んな形の格闘の稽古をして見せるので実に閉口しています。

「このごろ」(昭和15年)

・・・いったい私は、自分をなんだと思っているのか。之は、てんで人間の生活じゃない。私には、家庭さえ無い。三鷹の此の小さい家は、私の仕事場である。ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来上がると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。・・中略・・あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の空をあこがれる。・・・中略・・・
「・・・もう、あんな奴らとは付き合う事が出来ねえ。ひでえ事を言いやがる。伊村の奴がね、僕の事をサタンだなんて言いやがるんだ。・・・後略・・・」

「誰」(昭和16年)

今年、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった筈である。
三井君は、小説を書いていた。ひとつ書き上げる度事に、それを持って、勢い込んで私のところへやって来る。がらがらっと、玄関の戸をひどく音高くあけてはいって来る。・・・中略・・・作品を携帯していない時には、玄関をそっとあけてはいって来る。だから、三井君が私の家の玄関の戸を、がらがらっと音高くあげてはいって来た時には、ああ三井君が、また一つ小説を書き上げたな、とすぐにわかるのである。

「散華」(昭和19年)