太宰治略年譜
- 1909(明治42)年
- 6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれる。本名、津島修治。
- 1923(大正12)年 14歳
- 貴族院議員在任中の父、病没。県立青森中学校に入学。遠戚宅から通学。
- 1927(昭和2)年 18歳
- 4月、中学4年修了で官立弘前高等学校文科甲類に入学。弘前市内の親戚宅より通学する。9月、青森の芸妓紅子(小山初代)と知り合う。
- 1929(昭和4)年 20歳
- 共産主義の思想から地主階級出身であることを悩む。12月、期末試験の前夜、カルモチン自殺をはかるが未遂。
- 1930(昭和5)年 21歳
- 4月、東京帝国大学仏文科に入学、東京市本郷区に下宿する。井伏鱒二に会って師事する。10月、長兄文治が初代との結婚は分家などを条件に認め、初代は落籍のため一時帰郷。11月、銀座のカフェに勤める田辺あつみ(本名 田部シメ子)と鎌倉小動崎の海岸で薬物心中を図り、女は死亡。
- 1931(昭和6)年 22歳
- 2月、前年暮れに仮祝言を挙げた初代と品川区で新所帯を持つ。
- 1932(昭和7)年 23歳
- 7月、青森署に自首し、共産党のシンパ活動から離脱する。
- 1933(昭和8)年 24歳
- 2月、井伏宅に近い杉並区天沼に転居。初めて太宰治の名で「列車」を『サンデー東奥』に発表。
- 1934(昭和9)年 25歳
- 4月、「葉」を『鷭』に発表。
- 1935(昭和10)年 26歳
- 3月、都新聞の入社試験に失敗し、鎌倉で縊死を図るが未遂。5月、「道化の華」を『日本浪漫派』に発表。7月、船橋に転居。8月、『文藝』(2月)発表の「逆行」が第一回芥川賞候補となり、次席でおわる。9月、大学を除籍される。
- 1936(昭和11)年 27歳
- 6月、最初の創作集『晩年』刊行。8月、第三回芥川賞に落選する。10月、前年の盲腸炎手術後のパビナール中毒治療のため江古田の東京武蔵野病院に入院。
- 1937(昭和12)年 28歳
- 3月、妻初代の過失を苦にし、谷川温泉で心中未遂。6月、初代と離別。
- 1938(昭和13)年 29歳
- 9月、井伏鱒二が滞在する御坂峠の天下茶屋に赴く。甲府の石原美知子と見合いをし、11月、婚約する。
- 1939(昭和14)年 30歳
- 1月、井伏家で石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町で新婚生活に入る。2月、3月「富嶽百景」を『文体』に発表。9月、東京府北多摩郡三鷹村下連雀の家に転居し、終生の住まいとなる。
- 1940(昭和15)年 31歳
- 5月、「走れメロス」を『新潮』に発表。前後して「駈込み訴え」「女の決闘」など名品を発表し、「鷗」「善蔵を思う」「乞食学生」「きりぎりす」など、三鷹での生活を素材にした作品群を雑誌掲載する。12月、創作集『女生徒』により北村透谷賞副賞を受ける。
- 1941(昭和16)年 32歳
- 1月、「東京八景」を『文學界』に発表する。6月、長女園子誕生。9月、太田静子が友人と共に初めて三鷹の太宰の家を訪問する。11月、文士徴用を受けたが、胸部疾患のため徴用免除。書き下ろし『新ハムレット』刊行。
- 1942(昭和17)年 33歳
- 2月、前年暮の太平洋戦争勃発を、三鷹に住む主婦の日記に仮託して書いた「十二月八日」を『婦人公論』に発表。4月、短篇集『風の便り』刊行。6月、創作集『女性』刊行。10月、初めて妻と長女を伴い帰郷し、母を見舞い数日間滞在する。12月、母逝去。単身帰郷した。
- 1943(昭和18)年 34歳
- 1月、妻子と共に亡母の法要のため帰郷。3月、甲府に滞在し脱稿した歴史小説を、9月、『右大臣実朝』として刊行。
- 1944(昭和19)年 35歳
- 7月、先妻小山初代、中国青島で病死(32歳)。8月、長男正樹誕生。創作集『佳日』刊行。三鷹の街や井の頭公園などが登場する「帰去来」「黄村先生言行録」「花吹雪」などを収録。11月、『津軽』刊行。
- 1945(昭和20)年 36歳
- 3月、妻と子供二人を甲府の石原家に疎開させる。4月には、空襲で家を破損し、自身も妻の実家である石原家に疎開する。7月、石原家、爆撃のために全焼する。やむなく妻子を連れて津軽の生家へ疎開する。敗戦を故郷でむかえて、翌年11月まで生家の離れで生活する。9月、『惜別』刊行。10月、『お伽草紙』刊行。
- 1946(昭和21)年 37歳
- 1月、戦後に失望して、前年10月より『河北新報』に連載の「パンドラの匣」は途中で取りやめる。4月、「十五年間」を『文化展望』に発表。6月、『パンドラの匣』刊行。(7月、祖母イシ逝去。)11月、疎開生活を終えて、妻子と共に三鷹の自宅に帰る。来客多く、三鷹駅近くに仕事部屋(旧中鉢家二階)を借りる。12月、「冬の花火」が、マッカーサー司令部の意向により中止される。
- 1947(昭和22)年 38歳
- 1月、太田静子の訪問を受ける。2月、下曽我の大雄山荘に静子を訪ね、日記を借り受ける。田中英光の疎開先、伊豆の三津浜で、「斜陽」を起稿する。3月、次女里子誕生。この頃、三鷹駅前の屋台で山崎富栄と知り合う。4月、新たな仕事部屋で「斜陽」を書き継ぎ、6月、脱稿、『新潮』連載は7月から10月まで。7月、最初の仕事場をモデルにした「朝」を『新思潮』に発表。仕事部屋として小料理屋千草の二階を使うようになる。8月、体調を崩し家にこもる。9月、千草の斜め前だった山崎富栄の部屋を仕事場とする。11月、太田静子との間に、治子誕生。12月、『斜陽』刊行。
- 1948(昭和23)年 39歳
- 1月上旬、喀血する。3月頃から富栄が付き添って栄養剤を注射しながら「人間失格」を執筆する。一方、『新潮』連載の「如是我聞」では、志賀直哉らを痛烈に批判。5月、「桜桃」を『世界』に発表。6月から「人間失格」を『展望』に掲載、
8月まで続く。6月13日夜半、「グッド・バイ」(未完絶筆)の草稿、遺書数通などを机辺に残し、山崎富栄と共に玉川上水へ身を投じる。19日、二人の遺体が発見される。21日、葬儀委員長、豊島与志雄、副委員長、井伏鱒二により自宅にて告別式。7月、三鷹の禅林寺に葬られる。法名は「文綵院大猷治通居士」。
- 1949(昭和24)年
- 6月、禅林寺の森鷗外の墓近くに太宰治の墓碑を建立。12日、津島家により一周忌が営まれる。19日、今官一が「桜桃忌」と命名した太宰を偲ぶ集会が、禅林寺で営まれるようになる。
―山内祥史、渡部芳紀各氏の年譜を参照させて頂き作成しました。―
明治40年建設の生家。第10子で6男の修治(太宰)は、この家で生まれた最初の津島家の子供になる。現在は、太宰治記念館「斜陽館」。
兄弟たちと共に。前列左より、三兄圭治、長兄文治、次兄英治、後列、弟礼治、修治(太宰)
最初の創作集『晩年』(昭和11年 砂子屋書房)
平明な作風を打ち出した「富嶽百景」(『文体』昭和14年2月)
昭和14年1月8日、井伏鱒二宅での結婚式にて。前列左より井伏夫人、新婦美知子、新郎太宰、井伏鱒二。後列中央 中畑慶吉、右端 北芳四郎。
『女生徒』(昭和14年 砂子屋書房)装幀 山田真一
少年少女にも読まれるようになる「走れメロス」(『新潮』昭和15年5月)
『東京八景』(昭和16年 実業之日本社)装幀 小磯良平
三鷹の家の前にて。美知子夫人と共に。昭和15年
話題作「斜陽」を掲載した『新潮』(昭和22年7月)表紙絵 川端龍子
玄関前の百日紅の木が登場する「おさん」を掲載した『改造』(昭和22年10月)
『人間失格』(昭和23年 筑摩書房)装幀 庫田叕