太宰治と三鷹

三鷹が登場する作品

戦中・終戦直後の三鷹を描く

大戦中と終戦直後の市井を描いた小説では、太宰特有の“女性独白体”が際立ち、女性へ向けた視線があります。旧華族の女性側から書いた「斜陽」には、三鷹の地名はなくても、駅前の千草がモデルと思われる小料理屋などが登場します。

校庭での防空演習の写真
三鷹第三国民学校校庭での防空演習
(昭和18年頃 上連雀3丁目)

市場を出て主人の煙草を買いに駅の売店に行く。町の様子は、少しも変っていない。ただ、八百屋さんの前に、ラジオニュウスを書き上げた紙が貼られているだけ。・・・・中略・・・・夕飯の仕度にとりかかっていたら、お隣の奥さんがおいでになって、十二月の清酒の配給券が来ましたけど、隣組九軒で一升券六枚しか無い、どうしましょうという御相談であった。・・中略・・とうとう六升を九分する事にきめて、早速、瓶を集めて伊勢元に買いに行く。

「十二月八日」‐注、大戦勃発の日‐(昭和17年)

オ星サマ。日本ノ国ヲオ守リ下サイ。
大君ニ、マコトササゲテ、ツカヘマス。
はっとした。いまの女の子たちは、この七夕祭に、決して自分勝手のわがままな祈願をしているのではない。

「作家の手帖」(昭和18年)

・・・高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。・・中略・・桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。

『お伽草紙』「前書き」(昭和20年)

(井の頭公園の)池のはたの杉の木が、すっかり伐り払われて、・・中略・・昔とすっかり変っていました。
坊やを背中からおろして、池のはたのこわれかかったベンチに二人ならんで腰をかけ、家から持って来たおいもを坊やに食べさせました。

「ヴィヨンの妻」(昭和22年)

・・・・お昼すこしすぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負って持ってきました。そうして私のほうから、約束どおりの衣類を差し上げました。娘さんは、・・中略・・じつに、リアルな口調で、「あなた、ものを売って、これから先、どのくらい生活して行けるの?」と言いました。・・・中略・・・
 「チドリ? 西荻のどのへん?」心細くて、涙が出そうになった。・・・中略・・・
 「・・僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍をとおると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒を釣った事や、めだかを掬った事を思い出してたまらない気持ちになる」
暗闇の底で幽かに音立てて流れている小川に、沿った路を私たちは歩いていた。

「斜陽」(昭和22年)

この土地は、東京の郊外には違いありませんが、でも、都心から割に近くて、さいわい戦災からものがれる事が出来ましたので、都心で焼け出された人たちは、それこそ洪水のようにこの辺にはいり込み、商店街を歩いても、行き合う人の顔触れがすっかり全部、変ってしまった感じでした。

「饗応夫人」(昭和23年)