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市内の各スポット解説(三鷹駅前エリア)

作成・発信部署:企画部 広報メディア課

公開日:2009年12月10日 最終更新日:2019年12月16日

三鷹駅前エリアの各観光スポットの解説です。

三鷹駅前エリア

三鷹駅

JR中央線が開通したのは明治22(1889)年、当時は甲武鉄道とよばれていた。三鷹駅は40年後の昭和5(1930)年に開設したが、初めは南口のみで、北口の開設は昭和16(1941)年。昭和24(1949)年には戦後の社会不安の時代、「三鷹事件」がこの駅で起こっている。昭和42(1967)年の中央線特別快速停車に続いて、翌年4月から総武線、営団地下鉄東西線が乗り入れるようになった。昭和44(1969)年には三鷹橋上駅がオープン。南口と北口を結ぶ連絡通路も開通し、現在の形になった。

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

独歩の碑

三鷹駅北口には「山林に自由存す」という『独歩吟』の一節が武者小路実篤の書で刻まれた碑が建つ。国木田独歩の二男で彫刻家の佐土哲二制作による独歩の上半身レリーフもはめこまれている。独歩の『武蔵野』に登場する桜橋や小金井堤は玉川上水のもっと上流。

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

三鷹市美術ギャラリー

平成5(1993)年10月、三鷹駅南口のコラル5階に開館。勤め帰りにも利用しやすい午後8時まで開館している。近現代美術を主とした企画展示を開催するとともに、市民の美術作品発表の場となっている。
連絡先:美術ギャラリー 電話0422-79-0033

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

赤とんぼの碑・文学モニュメント

三鷹ゆかりの文学者は数多く、三鷹駅前から続く中央通りには多くの碑が建っている。三木露風にちなむ赤とんぼの碑は昭和52(1977)年に商店街の入口に建てられたもの。平成5(1993)年にこの碑の改修とともに、新たに名誉市民の山本有三・武者小路実篤、太宰治と亀井勝一郎の親交をテーマにした3つの碑を建立した。

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

太宰の仕事場

太宰治は昭和14(1939)年から、終戦前後の疎開を除き、昭和23(1948)年6月に玉川上水に入水するまでを三鷹で過した。

昭和21(1946)年11月に疎開先の青森県金木から三鷹に戻り、三鷹での最初の仕事部屋として旧中鉢家の2階を借りた。商社に勤める女性が借りた部屋を女性が出勤している間、午後3時ごろまでという約束で借りたものだった。「メリイクリスマス」「ヴィヨンの妻」を執筆。建物は解体されたが、この部屋の部材の一部は市で保存されている。昭和22年4月から2番目の仕事場・旧田辺精肉店離れ(三鷹駅前交差点東側)へ。「斜陽」の3章以降を執筆。編集者にも内密にした仕事場で、夜遅くまで電気がついていたという。22年5月には3番目の仕事場である旧西山家へ移り「斜陽」を完成。

昭和22年7月から4番目の仕事場・旧千草(現ベル荘)へ。よく通った飲み屋の2階を仕事場として借りたもので、その部屋の窓は、狭い路を隔てて、彼の死の道連れとなった山崎富栄の部屋に面していた。この山崎富栄の下宿であった旧野川家(現永塚葬儀社)の2階の一室も仕事部屋として使われた。そして昭和23年6月13日、この部屋から二人は玉川上水にむかうのである。
太宰ゆかりの地については「太宰が生きたまち・三鷹」参照。

ポケットスペース・玉鹿石

玉川上水沿いの「風の散歩道」にあるポケットスペースには、作家・太宰治が玉川上水について綴った一節を刻んだレリーフが設置されている。「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。(「乞食学生」より)」

太宰が玉川上水に入水した場所は今でもはっきりとしない。しかし「最後の場所を知りたい」というファンの要望にこたえ、履物がそろえて置かれていたとされる上水ほとりの大ケヤキの向かい側、「風の散歩道」の歩道上に、太宰の生まれ故郷・青森県金木町から取り寄せた特産の玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれている。「石に語らせるのではなく、見る人の想像に任せたい」と石には何も刻まず、無銘碑となっている。

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

むらさき橋

むらさき橋は三鷹市と武蔵野市を結ぶ橋として、両市を結ぶ交通の利便性向上を目的に両市が協力して建設し、昭和30(1955)年に完成した。橋名は両市民からの公募により、両市が広々とした武蔵野原野にあった時に一面に咲き誇っていた「むらさき草」の名にちなみ命名される。橋台をそのまま残しその外側に新しく橋台を設けて橋を乗せるという工法により、平成9(1997)年に架け替えられた。

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品川用水

さくら通りには、かつて玉川上水の分水の一つ「品川用水」が流れていた。このあたり下連雀は、明暦の大火などの後に神田連雀町から集団移住させられた江戸町民が開いた村。品川用水の水を使って畑作を行っていた。東西65メートル、南北720メートルの短冊形の地割りの農家が、連雀通りに沿って南北に並び、「橋場」と呼ばれた南浦交差点が村の中心だった。用水路は戦後、昭和26(1951)年からの失業対策土木事業で暗渠化され、さくら通りは幅9メートルの市内初のアスファルト舗装道路となった。

玉川上水

江戸の上水として造られた玉川上水は、承応2(1653)年に、多摩川中流の羽村の堰から四谷大木戸まで43キロメートルが開削された。江戸町民の上水として計画されたものだが、後には武蔵野台地に分水路が引かれ、飲み水や灌漑用水、水車の動力などに利用されて、新田開発に大きな役割を果たした。明治初期には、物資輸送のための通船も行われた。
かつては「人喰い川」と恐れられるほどの水量だったというが、上水としての役目を終えて空堀の時期が続き、昭和61(1986)年に東京都の清流復活事業で水がよみがえった。

欅橋・庚申塔

欅橋は三鷹駅の西側、三鷹市域では玉川上水にかかる最も上流の橋である。道路が拡幅され昔の橋の位置はわからない。昔、ここに大木の欅があったとか、欅の橋を架けたなどの話が伝わる。橋のそばにある「観世音堂」も拡幅で今の場所に移設されたが、当初の位置は、上連雀の鬼門にあたるということで堂がつくられたようだ。堂内には、市指定文化財の庚申塔がある。享保14(1729)年建立。

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陸橋(三鷹電車庫跨線橋)

三鷹電車庫の開設にともなって昭和4(1929)年に造られた。電車庫の引込線と中央線線路をまたぐ全長90メートルの鉄骨の橋。日本最初の直径1メートルの電気大時計も設置されて話題になった。太宰治は、「いい所がある」と言っては、弟子を連れてここに来ていた。写真家・田村茂が撮影した二重まわし姿で遠い空をじっとみつめる橋上での太宰の写真はよく知られている。

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

堀合遊歩道

堀合遊歩道は、昭和26(1951)年に中島飛行機武蔵製作所跡地に開設された「武蔵野競技場」(野球場)に通じていた三鷹駅からの電車・通称グリーンパーク線の線路跡。この球場は国鉄スワローズの本拠地だったが、プロ野球開催は実質1シーズンで打ち切りとなり、閉鎖されてしまった。玉川上水北側も遊歩道になっている。

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禅林寺・太宰治の墓

森鴎外を尊敬してやまなかった太宰治は、禅林寺にある鴎外の墓について、「花吹雪」(昭和19年発表)に「ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓所の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と書いている。その意を汲んで、美智子夫人が太宰をこの寺の鴎外の墓の側に葬った。毎年6月19日の桜桃忌には、全国から多くの太宰文学愛好者がここに集まってくる。6月19日は太宰の遺体が発見された日でもあり、誕生日でもある。

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禅林寺・森林太郎(鴎外)の墓

禅林寺の山門わきに森鴎外の遺言碑があり、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(中略)墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」と刻まれている。遺言通り「森林太郎」とのみ彫られた鴎外の墓は、昭和2(1927)年に向島の弘福寺からこの寺に移されたもの。それ以降、墓参のために、与謝野晶子や斉藤茂吉、永井荷風などが三鷹を訪れるようになった。

三鷹市芸術文化センター

音響性能を重視したシューボックス型の「風のホール」(625席)、演劇や古典芸能などに適した「星のホール」(250席)、可動壁により5室に分割可能な美術展示・創作室、音楽練習室などがある芸術文化活動の拠点。三鷹市スポーツと文化財団によって音楽・演劇・美術などの多彩な企画事業も開催されている。
連絡先:三鷹市スポーツと文化財団 電話0422-47-5122

周辺の地図情報(三鷹市わがまちマップ)(外部リンク)

御鷹場の碑

徳川家康をはじめ代々の江戸幕府の将軍は、鷹をつかって野鳥や兎などを獲らえる「鷹狩」を行い、井の頭周辺にもたびたび来ている。
江戸城を中心に5里(20キロメートル)以内は幕府の鷹場で、これより西が尾張徳川家の鷹場。三鷹はその境界にあり、「従是東西北尾張殿鷹場」などの文字が刻まれた境界を示す標石が、明和7(1770)年ごろに建てられた。現在、市役所南側の雑木林内、大沢の長久寺境内、野崎の吉野家門前に各1本ずつがある(移設されたもので、原位置は定かではない)。
ちなみに、「三鷹」という地名は、明治22(1889)年に、野方・世田谷・府中の3領に分かれていた鷹場の10の村々が合併したことから名づけられたという。

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