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三鷹の歴史「飛行機工場の町へ ・ 戦時下」

作成・発信部署:企画部 広報メディア課

公開日:2012年9月5日 最終更新日:2019年6月26日

画像:写真・中島飛行場三鷹研究所(現ICUキャンパス)(拡大画像へのリンク)

中島飛行場三鷹研究所(現ICUキャンパス)

(画像クリックで拡大 19KB)

人口が4万人台に突入し、町制が施行

昭和8(1933) 年に正田飛行機と三鷹航空、昭和12(1937)年に日本無線電信電話、昭和14(1939)年に調布飛行場の開設とともに国立中央航空研究所、そして昭和16(1941) 年の中島飛行機三鷹研究所。太平洋戦争直前のこの時代、軍需関連の大企業の工場が次々と三鷹に集まってきました。

下請けの工場も多かったことから、工場労働者のための社宅も数多く建設され、昭和10(1935)年には2万人に満たなかった三鷹の人口は、その後の10年間で4万人台に突入し、昭和15(1940) 年に町制が施行されました。

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