ここから本文です
身近な場所で平和を考える「平和メモリアルスポット」を指定しました
作成・発信部署:企画部 平和人権課
公開日:2026年6月5日 最終更新日:2026年6月9日
平和メモリアルスポット
三鷹市では、平和の尊さや戦争の記憶を次世代に継承するため、戦争や平和に関する市内の歴史的建造物、記念碑、モニュメント等を「平和メモリアルスポット」として指定しました。
みたか平和資料コーナー(三鷹市役所)
平成30年(2018年)4月から、市民のみなさんから寄贈された戦争関連資料を中心に閲覧できる場所として、三鷹市役所本庁舎3階に設置しています。太平洋戦争時、ガダルカナル島から生還された故小尾靖夫氏が戦後に米国から贈られた「平和のパイプ」や、東京大空襲を千葉県柏市から見た故長谷緑也氏がその光景を描いた油絵などのほか、出征旗や千人針、従軍記章といった戦争遺品を展示しています。令和6年(2024年)8月には、三鷹駅前市政窓口にも平和資料コーナーを追加設置しています。
みたか平和資料コーナー(三鷹駅前市政窓口)
令和6年(2024年)8月に開設しました。小学校に長らく保存されていた軍帽や、三鷹に投下された焼夷弾、戦時中に使用された灰皿(「三鷹町産業組合」と記載され、戦闘機のプロペラが造形されている)など、戦争の記憶を受け継ぐ三鷹と関連の深い資料を展示しています。
仙川平和公園
令和2年(2020年)11月、戦後75年の節目の年に、平和への願いを次世代に継承するため、平和の像やアンネ・フランクのバラ、広島被爆樹木のアオギリなど、多くの平和関連のモニュメントが集まる「仙川公園」を平和への願いを込めた名称に変更しました。
旧日本無線三鷹工場(プラウドシティ吉祥寺)のヒマラヤスギ
大正4年(1915年)に東京市芝区(現港区西新橋)に創設された日本無線は、日中戦争による軍需拡大に応じるため、昭和13年(1938年)7月に大崎(元品川区)から三鷹に移転しました。三鷹本社工場の敷地は終戦までに4万坪に達し、日本無線の従業員は地方工場を除き1万人以上に達しました。日本無線は陸海軍の無線機やレーダーを生産していました。敷地内には、技術者の養成のため「私立日本無線青年学校」を設立しました。教師には三鷹に暮らし、童謡「赤とんぼ」で知られる詩人・三木露風がいました。
現在「プラウドシティ吉祥寺」の前にあるヒマラヤスギは、日本無線が三鷹に移転した際、101号棟(事務所)竣工時に植えられたものです。101号棟は鉄筋コンクリート造であるかのような意匠を持っていましたが、車寄せの円柱を除き、資材節約のため木造建築でした。
椎の実子供の家(高射砲陣地台座と犠牲者慰霊碑)
昭和18年(1943年)9月、調布飛行場と首都防衛のため、東部1903部隊調布隊がこの高射砲陣地に移駐しました。この高射砲陣地では、88式7糎野戦高射砲6門を備えていました。昭和20年(1945年)2月17日、米軍の硫黄島上陸を援護するため、関東の軍事関連施設を襲撃した米艦載機がここにも飛来しました。この部隊は応戦し4名が戦死、多数が負傷しました。昭和20年(1945年)4月、この高射砲部隊は富山県新湊に移動し、戦後三鷹市長を務めた鈴木平三郎が陣地跡を保存するためこの地を取得しました。昭和56年(1981年)に「首都防衛高射砲陣地跡」の石碑を戦友会が建立し、毎年2月17日と8月15日に、この碑の前で「不戦の誓い」がおこなわれてきました。現在も保育園「椎の実子供の家」の園庭と隣地に、高射砲のコンクリートの砲座が4門保存されています。
調布飛行場門柱
陸軍調布飛行場は昭和16年(1941年)に開設されました。「帝都防空」のために運用され、昭和19年(1944年)11月24日から始まった本土空襲では、中島飛行機武蔵製作所を狙う米軍機の偵察や迎撃のため、多くの飛行機が飛び立ちました。陸軍飛行第244戦隊の三式戦闘機「飛燕」による体当たり攻撃など、危険な迎撃作戦が実施され、飛行士が犠牲となりました。
調布飛行場は、当初は東京府、逓信省、陸軍の3者共用が想定され、用地費用も応分に負担していました。しかし、戦局悪化により陸軍が占有し、拡張で敷地は60万坪を超えました。この過程で多くの民家や寺院が移転し、新選組局長・近藤勇の生家も含まれていました。滑走路は南北・東西の2本が置かれ、風向きに応じて運用されていました。
現在は、旧敷地の東側が東京都管理の飛行場として運用されており、伊豆諸島などへの離島便ターミナルとなっています。一方、西側の用地は民間払い下げや公共利用が進み、東京外国語大学、警察大学校、味の素スタジアムなどが立地しています。かつての正門の一対の門柱は、現在、三鷹市大沢グラウンド脇の歩道上に移設・保存されています。大谷石造りの門柱上部には電灯のソケット痕が残り、正面には旧字体の「京」を用いた「東京調布飛行場」の文字が刻まれています。本来は門柱間隔がより狭く、観音開きの扉を備えていました。平成15年(2003年)に三鷹市が解説板を設置しました。
また、門柱北側の道路沿いにはV字型の排水溝が残っており、これは大雨による冠水から飛行場を守るために不可欠な施設でありました。溝の表面には、旧多摩鉄道(現・西武多摩川線)で運ばれた多摩川の玉石が敷き詰められています。
掩体壕 大沢1号・大沢2号
アジア太平洋戦争末期、アメリカ軍を中心とする連合国軍の日本本土上陸は必至の情勢となると、陸軍は「本土決戦」に備え、昭和19年(1944年)には航空兵力の温存のために飛行場周辺に、敵機の空襲から戦闘機を隠し、保護するために掩体壕(正式名称は掩体)を多数構築しました。
調布飛行場では、鉄筋コンクリート造りの屋根のある「有蓋掩体」約30基、コの字型の土塁に竹や杉枝などで覆うだけの「無蓋掩体」約30基を急造しました。作業には植木職人や勤労動員学徒が使われました。
掩体壕は日本全国および植民地だった朝鮮半島などの軍用飛行場周辺に合計1000基前後が設置され、いまも日本国内だけでも約240基が残存しているといいます。戦後、これらは無用の長物となり多くは取り壊されましたが、調布飛行場周辺では4基が現存します。このうち2基が三鷹市大沢の都立武蔵野の森公園内に保存されています。
三鷹市大沢に残る2基は、都立武蔵野の森公園内の北東部に位置しています。「大沢1号」と名付けられた南向きの掩体壕は、崩落しないように内部に発泡スチロールを充填する保存処理が施され、掩体壕の開口部にあたる表面には、格納されていた三式戦闘機「飛燕」の絵が描かれ、イメージしやすくなっています。開口部の幅が約12m、長さも約12m、高さ4m弱の扇形で後ろの部分も排気のため開いています。現状を見ると地面から3m程度の高さしかありませんが、当時は内部が掘り下げられていたと推定されます。掩体壕に向かって右手に説明板とともに10分の1の「飛燕」を格納した掩体壕の模型があり、イメージを豊かにしてくれます。
一方、大沢2号は北向きの状態で、こちらは建設時のまま、普段はフェンスに囲まれた状態で保存されています。内部の天井は、朝鮮戦争の時代に鉄筋が抜き取られたり、小石や砂利を多く含んだ粗悪なコンクリートが剥き出しとなって劣化し、崩落の危険は否めません。なお、大沢2号の北側でも、調布飛行場門柱の説明でも触れた排水溝がよく観察できます。
国際基督教大学
国際基督教大学(ICU)は第二次世界大戦後の災禍をふまえ、平和構築に貢献する人材を育成するため昭和24年(1949年)に創立されました。国内外からの募金が寄せられ、旧中島飛行機三鷹研究所の敷地を取得し、昭和28年(1953年)に大学として発足しました。正門、そこから現ICU礼拝堂前に至る通り、その突き当たりにあるロータリーは三鷹研究所の遺構です。試作機はロータリーを周回して調布飛行場に向かいました。
この通りは、終戦直後から日本への原爆投下による多大な犠牲者を認識し、日本の復興のための募金を開始しようと呼びかけて国際基督教大学(ICU)創設に協力したアメリカのジョン・マクリーン牧師を記念して「マクリーン通り」と命名されました。並木の桜はマクリーン牧師の提言により植えらました。
SUBARU東京事業所
中島飛行機三鷹研究所のエンジン開発部門では、中島飛行機の戦闘機「疾風」や川西航空機の戦闘機「紫電改」に搭載されたエンジン・ハ45「誉」の改良型やジェットエンジン・ネ230などの研究・開発が行われました。中島飛行機では、「飛行機は生命に関わる乗り物」ということを強く認識した人間第一の設計思想のもと、研究・開発が行われていました。昭和20年(1945年)2月17日には中島飛行機三鷹研究所でも空襲があり、死者が出るなどの被害がありました。
戦後、中島飛行機三鷹研究所の一部区域が富士重工業三鷹工場、現在のSUBARU東京事業所となり、日本を代表するスクーター「ラビット」や軽自動車・スバル360のエンジンを開発、生産しました。現在も自動車のパワーユニット等の研究・開発を行っており、中島飛行機時代から培われた「パイロットの生命と安全を守ることを第一とする」安全思想と技術は、SUBARUへと受け継がれています。
堀合遊歩道と堀合児童公園
幻の野球場、東京スタジアム・グリーンパーク野球場は、昭和26年(1951年)4月、現在のUR・武蔵野緑町パークタウンがある場所に開設されました。この野球場を開設したのは、当時、公職追放中であった松前重義らが作った会社組織で、役員には、武者小路実篤や徳川夢声らが名を連ねていました。
この野球場開設に伴い、中島飛行機武蔵製作所への引き込み線は、武蔵境駅から三鷹駅に付け替えられ、また、現在の都立武蔵野中央公園南口付近では東寄りに曲げられて、現在、大型マンション「武蔵野ガレリアルーチェテラッツァ」の場所にあった駅に向かっていました。野球場の前に設置された駅は「武蔵野競技場前駅」と呼ばれ、引込線は「武蔵野競技場線」と呼ばれました。しかし、野球場閉鎖とともに、この路線も廃止され、軌道跡のうち、三鷹市域が「堀合遊歩道」および「堀合児童公園」となりました。なお、堀合とは、玉川上水とその分水である品川用水が並走する地域の特徴に由来する地名です。
お問い合わせ
三鷹市 企画部 平和人権課
電話 0422-29-9032

シェア
ポスト
防災関連情報
休日・夜間診療