資料集

三鷹の水車

水車は、いつからいつまであったか

一番古いのは、元禄10(1697)年に品川用水に作られた粉屋の水車だが、許可を受けていなかったので、すぐ取り払われた。実際に営業していた水車の中で一番古いのは、天明4(1784)年の大沢の大車で、この水車は約160年間動いていた。この他に、江戸時代には新車(しんぐるま)、榛沢(はんざわ)水車が作られた。
明治15年頃は6台、同20年頃は7台、同25年には8台と約5年ごとに1台増え、明治41(1908)年には10台となる。これがピークで、大正の初め頃から少しずつ減っていく。この最大の原因は、電力の導入と宅地化による農地の減少である。最後まで残った新車も、昭和43年頃の野川の改修で停止している。

市内のどこに水車があったか

大沢地区に野川を利用した水車4台、湧水利用の水車が2台あった。この他は台地の上にあり、玉川上水の分水を利用した。井口と野崎地区の砂川用水に各1台、下連雀と新川地区の品川用水に各1台、牟礼地区の牟礼分水に1台、合計11台になる。

三鷹市内にあった水車の位置

水車の位置を示した地図 (「明治前期関東平野地誌図集成」を使用)

水車は何に使われたか

ほとんどの水車は水輪が水車場の中央にあって、その回っている姿は外から見られなかった。この水輪の片側に搗臼(つきうす)があって玄米や大麦を精白し、その反対側に挽臼(ひきうす)があって小麦を粉にした。この小麦粉の一部は江戸市中に卸され、うどんや和菓子の材料として使われた。このように、水車は自然エネルギーを利用して、人々の主食になる穀物の調整をしていた。
それだけでなく、明治42(1909)年には井野水車で機械100台を入れて組紐(くみひも)を始めた。その後、機械を増やし、大正13(1924)年からは電力で動かした。このように電力のない時代には水車は産業にも役立っていた。
新車には、古いタイプの搗臼や挽臼など、新しいタイプの精麦機、押麦機、製粉機などの両方があり、最初は水車、後に電気で動かした。

小坂克信(産業考古学会水車と臼分科会代表)