広報みたか2025年11月16日2面
■卓球界の偉人 荻村伊智朗の足跡
卓球界を代表する選手であり、世界選手権では12個の金メダルを獲得。
選手活動だけでなく、指導者、国際卓球連盟の会長としても世界に大きな影響を与えた人物です。偉大な功績を残した荻村さんの生涯を3つの視点から紹介します。
[問]スポーツ推進課TEL0422-29-9863
■三鷹市との関わり
昭和7(1932)年、静岡県伊東市で生まれ、8歳の時に三鷹市へ転居。野球や体操に明け暮れた少年時代を経て、現在の都立西高等学校に進学し、卓球と出合います。自ら卓球部を創設すると猛練習に打ち込み、「最速最強」の卓球選手を目指しました。
昭和29(1954)年、22歳で世界選手権ロンドン大会に初出場し、男子シングルス・団体で優勝。市内では、凱旋パレードが行われました。以降、世界選手権に12年連続で出場を果たし、日本人として最多となる12個の金メダルを獲得しました。
現役引退後も市内で暮らし、執筆や講演、国際卓球連盟の活動を続けるなど、三鷹市は、荻村さんが最晩年まで生活し、発信の拠点とした場所です。
■指導者としての功績
監督として、教え子を世界選手権出場に導くなど、指導者としても大きな功績を残しています。スウェーデンではナショナルチームのコーチとして指導し、同国から初となる世界チャンピオンを輩出しました。荻村さんの功績を記念し、日本と同国では「荻村伊智朗杯メモリアルマッチ」が複数回開催されています。昭和63(1988)年には、会員制の卓球クラブ「ITS三鷹」を市内に創設し、子どもからトップ選手まで幅広く指導しました。
一方、「51%理論」「速攻三原則」「時間・空間戦術」などの体験・感覚的な発想ではない、独自の卓球理論を築き、『中高生指導講座I』等、多くの著書を生み出しました。38歳の時には、月刊『卓球ジャーナル』を創刊し、執筆にも携わりました。
■国際交流、平和への貢献
持ち前の英語力を生かし、卓球を通じてさまざまな国と交流しました。日本卓球協会常任理事を務めた際には、中国の参加復帰に尽力し、世界選手権名古屋大会に中国が6年ぶりの参加を果たしました。緊張状態にあったアメリカと中国との関係を緩和するきっかけとなったことから「ピンポン外交」と呼ばれ、その立役者として貢献しました。
また、昭和62(1987)年には、国際卓球連盟の会長に就任。ほかの競技を含め、国際連盟の会長に選ばれたのは日本人初の快挙でした。就任後、平成3(1991)年の世界選手権千葉大会では、分断されていた北朝鮮と韓国の卓球選手団を「コリア」という合同チームにまとめあげるなど、スポーツ外交による平和の実現にも貢献しています。
■卓球のカラー化作戦
平成3(1991)年の世界選手権千葉大会で、青色の卓球台やカラフルなウエアなどが初めて登場。これは、卓球のイメージアップを図るため、荻村さんが仕掛けたカラー化作戦でした。以降、卓球台の色は青が国際規格となりました。
■第1回 三鷹市荻村伊智朗杯 卓球大会
荻村さんの功績をたたえ、その精神を未来に伝える卓球大会を開催します。
[日]12月14日(日)午前9時から
[人]三鷹・調布・武蔵野・府中・狛江市内の小・中学生220人
[所]SUBARU総合スポーツセンター
[申]11月25日(火)までに申込用紙(三鷹市卓球連盟[HP]で入手)を、同連盟[メール]mitaka.tabletennis@gmail.comへ(申込多数の場合は三鷹市内の小・中学生を優先)
市外局番「0422」は省略。 【主】主催者 【日】日時・期間 【人】対象・定員 【所】場所・会場 【講】講師 【¥】費用(記載のないものは無料) 【物】持ち物 【申】申込方法 【問】問い合わせ 【保育】保育あり 【手話】手話(要約筆記)あり
