広報みたか2024年8月4日2面
■みたか平和資料コーナーを駅前市政窓口に新設
既存の市役所3階の展示コーナーを拡充するほか、三鷹駅前市政窓口にも新設します。市外からの問い合わせや取材を受けることも多い、貴重な資料をぜひご覧ください。
市役所3階
戦時下の生活をテーマに展示します。
三鷹駅前市政窓口
三鷹と関連の深い資料を展示します。
下連雀3-24-3 三鷹駅前協同ビル2階
三鷹駅南口のペデストリアンデッキ直結です。
■みたかデジタル平和資料館 新たに3編の戦争体験談を公開
紙面に掲載した写真・絵画をはじめ、市民の皆さんから寄贈いただいた戦争関連資料やご本人が語る戦争体験談の映像、太平洋戦争前後の三鷹の歴史、市内に残る戦跡などを記録・保存する特設サイトです。平成28(2016)年の開設以来、失われつつある戦争の「記憶」を未来に残すため、資料を随時拡充しています。
8月から公開された3人の方の戦争体験談をダイジェストでご紹介します
学徒勤労動員で日本無線に通った中学生時代
淺羽晴二さん(94歳)
14歳だった淺羽さんは、三鷹の日本無線に動員されていたときに軍事教練を受けました。その内容は、戦車に見立てたリヤカーに、ほふく前進で近付いてビール瓶をぶつけるというものでした。空襲警報がたびたび鳴り、そのたびに北野の森に逃げたそうです。昭和20年5月25日の山の手空襲で中野にあった自宅が全焼してもなお、日本は必ず勝つと信じる軍国少年だった淺羽さんが、戦争や終戦をどのように感じていたかが伝わってきます。
奇跡が重なり家族と共に生き延びた東京大空襲
荒川博さん(93歳)
浅草で暮らしていた荒川さんは、昭和20年3月10日の東京大空襲で皆が風下に逃げる中、ふとした直感で風上に避難し、母・妹・祖父と共に生き延びます。翌朝、焼け落ちて土台しか残っていない自宅の防空壕(ごう)で、唯一焼け残っていたのが、英語の参考書でした。一面焼け野原になった街の悲惨な様子や、疎開していた弟と奇跡的に合流したこと、その後の生活、焦げた英語の参考書で勉強して海洋学校に入学したことなどを語っています。
8年にわたる従軍とシベリア抑留の日々
堀江弥太郎さん(103歳)
21歳で召集された堀江さんは、満州(現在の中国東北部)で終戦を迎えた後、ソ連軍によってシベリアへ連行されました。収容所の食事は数人分が一つの洗面器に出され、極寒の外作業では目を拭いていないとまぶたが凍り付いてしまうような辛さでしたが、左官の技能があったため、ほかの強制労働者よりは良い暮らしでした。ようやく日本への帰還がかない、舞鶴港で出されたおにぎりとみそ汁、梅干しとたくあんは、今も忘れられないおいしさだったと語っています。
戦争の体験談や資料をお寄せください
市では戦争体験をお話しいただける方や戦争にまつわる資料(遺品・写真など)を寄贈またはお貸しいただける方を探しています。心当たりのある方は企画経営課TEL0422-29-9032へご連絡ください。
市外局番「0422」は省略。 【主】主催者 【日】日時・期間 【人】対象・定員 【所】場所・会場 【講】講師 【¥】費用(記載のないものは無料) 【物】持ち物 【申】申込方法 【問】問い合わせ 【保育】保育あり 【手話】手話(要約筆記)あり