緑と水の公園都市 三鷹市
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広報みたか2019年1月1日4面

■2019年新春対談「共に支え合い、助け合って生きる“ふるさと三鷹”の創生を」

落語家林家木久扇さん 林家木久蔵さん×清原慶子市長

 人気テレビ番組『笑点』のレギュラーとして50年間にわたりお茶の間に笑いを届けている落語家の林家木久扇さん。その活動は落語にとどまらず、絵画や俳句、執筆など幅広い分野にわたっています。また、三鷹市生まれの長男、林家木久蔵さんも落語とともに、子育ての著書の出版や健康に関する講演の活動をされています。
 お二人のファンである清原慶子市長が、定期的に落語会が開催されている「みたか井心亭」で、市とのゆかりや健康の秘訣、子育てや地域との関わりについてお聞きしました。

空の広い大沢で過ごした三鷹の思い出
清原 木久扇師匠は、約45年前に三鷹市大沢の国立天文台の近くにお住まいだったそうですね。当時の懐かしい思い出をお聞かせ願えますか。

木久扇 家の前が雑木林でどんぐりがいっぱい落ちていました。豊かな自然に囲まれていて、植木畑が広がっていましたね。

清原 移りゆく四季の変化を、自然豊かな大沢で印象深く感じられたことでしょう。

木久扇 野鳥も多かったです。鳥が雨戸の戸袋に巣を作ってしまって、ひなが巣立つまで雨戸の開け閉めができなかったこともあります。

清原 自然や生き物を愛する気持ちが、三鷹生まれの木久蔵師匠に受け継がれているように思います。

木久蔵 三鷹で動物が好きになったのかもしれませんね。2歳になる前に引っ越してしまったけれど、祖母が住んでいたから、小学生の頃はよく通いました。お隣さんとも仲が良くて、祖母が留守のときはお隣の家で待たせてもらったりもしました。当時は平屋がほとんどで、まち並みが平らで見渡す限り空だった記憶があります。久しぶりに来てみると、あの頃より高い建物でまちが立体的になっていて、その変化に驚きましたね。

清原 三鷹市ではこのところ、毎年約千人ずつ人口が増えているんです。

木久扇 えっ、そんなに増えているんですか。おめでとうございます!

親から子へと伝わる木久扇流子育て
清原 今、少子化が進み、地域で子どもが育つのを見守り、支えることが大切になっています。木久扇師匠は子育てに関するご著書もありますが、子育て世代に何かヒントをいただけますか。

木久扇 木久蔵は幼い頃本を読まなくて、外食へ行くと帰りに必ず本屋に寄りました。「好きな本を買っていいよ」と言っても、選ぶのは1冊だけ。そこで僕は「お父さんが読むから」と子ども向けの本を20冊くらい買って、家のあちこちに置いておくんです。そうすると、自然と本を開くでしょ。本で織田信長や豊臣秀吉を知って、歴史が好きになったようです。

清原 木久蔵さん、覚えてらっしゃいますか。

木久蔵 覚えています。芸人の「おかみさん」でもあり、主婦でもあった母は堅実で、本を買ってくれても1〜2冊です。でも父は、家にいれば外食に連れていってくれて、好きなだけ本を買ってくれる。一方で、母は父を立てていましたね。父がいるときはぜいたくなご飯。最初に箸を付けるのも父。一番風呂も父。だから家庭がうまくいっていたのかもしれません。夫婦の共同作業ですね。

清原 お弟子さんもいらっしゃるから、二人での外出はお父さんを独占できる貴重なひと時だったのでしょうね。落語家の家庭に生まれ、経験されたことで今、役立っていることはありますか。

木久蔵 父は子どもが行けないような飲食店によく連れていってくれました。大人になってから理由を聞くと、「噺家はしゃべるのが商売だから、口がおごっていなくちゃいけない」と、父の師匠から教わったそうです。確かに、落語が面白い方、うまい方は食べるのが好きだし、好奇心旺盛です。

清原 木久蔵師匠も、お子さんがいらっしゃいますね。

木久蔵 はい。娘が小学6年生、息子が5年生です。

清原 その息子さんが林家コタさんですね。初代木久扇師匠、二代目木久蔵師匠、コタさんの3人で一緒に落語会をやっているとお聞きしました。

木久蔵 父の傘寿のお祝いを兼ねて、親子三代の公演を1月にもやります。

木久扇 コタは自分から「落語をやりたい」と言い出したんですよ。

木久蔵 落語は、歌舞伎のように息子が受け継ぐ世界ではありません。息子が将来、落語家になるかどうかにかかわらず、今、面白がってくれればいいと思っています。

清原 木久蔵師匠はご自分がお父様からそうしていただいたように、お子さんの気持ちを大事に子育てをされているのですね。親子三代が気持ちを一つにして何かをするというのは、なかなか実現しないことです。落語を通じた深い信頼関係を感じます。

感情豊かに過ごすことが健康長寿の秘訣
清原 木久扇師匠は、『笑点』で「レギュラー出演50年」を達成されたとのこと、おめでとうございます。今、どんなことをお感じになっていますか。

木久扇 ありがたいことです。僕は2回がんになっていて、喉頭がんで9週間休んだときは、僕の場所に誰かが来てしまうのではと不安でした。でも、テレビをつけると僕の座布団だけが映っている。帰りを待っていてくれたんですね。

清原 木久扇師匠が大喜利に戻ってきたときは、同じ病気で苦しんでいる方々はもちろん、師匠と同世代の方々も勇気をいただいたと思います。長寿番組にご長寿で出演する。その秘訣を教えていただけますか。

木久扇 少し大げさですが、「闘う心」です。僕は、喉頭がんが完治して1年後に、自分で作詞をした『空とぶプリンプリン』という歌をNHKの『みんなのうた』で発表しました。病気に負けないで、歌だって歌えるぞという気持ちの表れです。

清原 木久蔵師匠も健康について人々に伝える活動をされていますね。

木久蔵 リウマチや脳科学の専門医の先生方と一緒に仕事をして知ったのは、感情豊かに過ごすことで免疫力が高まり、元気につながるということです。リウマチの患者さんには、薬では緩和できない痛みが笑うことで和らいだ、という方もいるそうです。感動したり、泣いたりするのも同じくらい効果があります。

清原 心が動くということの大切さですね。お父様はいかがですか。

木久蔵 父はとても感情が豊かですね。いくつになっても探究心があって、興味のあることに突き進みます。喉頭がんで入院したときも、絵は描いていましたし、「『木久扇ナポリタン』を作る!」と言い出して、放射線治療で味が分からないときでも試食までしていました。たくましいなと思いましたね。

清原 木久扇師匠は新作落語をつくり、絵を描き、著書も執筆されるなど、見事に切り替えながら、自然体で幅広い才能を発揮なさっています。市長も時間を有効に使うことが大切ですから、師匠は私のお手本です。その姿勢は、若い頃の体験から育まれたのですか。

木久扇 僕は日本橋の雑貨問屋に生まれて、小学1年生のとき東京大空襲で家が焼けました。猛火の中をおばあちゃんの手を引いて、防空壕に逃げた。生きることは死ぬことと隣り合わせだと、子どもの頃に思い知ったんです。だから、病気になるたび「あの空襲に比べれば大したことはない」と思っていました。
 切り替えについては、学校がお手本です。1時間ずついろいろな科目を勉強するのを、今でも続けているんですよ。大人になって仕事をし始めると、みんな一つのことしかしないけれど、僕は1日の活動を時間割で区分けしています。落語、ラーメン、絵画、俳句、そして最後は宇宙人と交信して、金星人と友達になる…とかね。

清原 素晴らしい!(笑)

助け合いの心で創る「ふるさと三鷹」
清原 木久蔵師匠の時間割はいかがですか。

木久蔵 落語以外で今楽しんでいるのは、フクロウを飼うこと。あとは、家事ですね。父を見ていると、興味を持てば何でも仕事につながるし、遊びにも人生にもつながるのだと思います。

清原 家事や子育てをされている時間は、とても大切ですね。

木久蔵 家庭を持つと自分のことだけ考えていてはだめだと思います。父の時代は「男は外で仕事」「女は家事・育児」という区分けがあったけど、今は違います。

清原 これは大事な変化です。家庭における男女共同参画です。

木久蔵 今は夫婦ともに家庭のことをしなくちゃいけません。でも、少し頑張りすぎの感じもしますね。昔は子どもを近所に預けたり、互いに面倒を見たりしていましたが、今は難しいのかもしれません。

清原 三鷹市では、地域の支え合いや助け合いを推進していて、子育てでは市民の自主グループを支援し、市内七つの住区では地域ケアネットワークが作られています。市民のみなさんが自然な形で集まって、お互いに支え合えるような「コミュニティ創生」を、さらに充実させていきたいと思っています。

木久蔵 僕は、三鷹市が住んでいる人たちの「ふるさと」になると良いと思います。地方出身の方が、ふるさととして三鷹と付き合ってくれれば、子育てももっとうまくいくと思います。

清原 ありがとうございます。実際に三鷹市では、北海道の方と九州の方が結婚して、子育てで実家を頼れないときに、ファミリーサポートなどの制度で地域の人が支えてくれたというお声も頂いてます。そういう相互支援の事例を増やしていきたいと思います。

久扇 助け合いというのは、人間の本能的なものですから。

木久蔵 人は一人では生きていけませんからね。

清原 何よりも「支え合い助け合う」心が大切ですね。今日は、貴重なお話をたくさん伺うことができました。どうもありがとうございます。

清原慶子市長 Keiko Kiyohara
 昭和26(1951)年、東京都生まれ。慶應義塾大学、同大学大学院で学んだ後、杏林大学・国際基督教大学非常勤講師、常磐大学人間科学部専任講師、ルーテル学院大学文学部教授、東京工科大学メディア学部教授・学部長を経て、平成15(2003)年4月に第6代三鷹市長に就任(現在4期目)。「参加と協働」「危機管理」「行財政改革」を政策の基礎に置き、「都市再生」「コミュニティ創生」を最重点とした「高環境・高福祉のまちづくり」を推進している。

林家木久扇さん Kikuo Hayashiya
 昭和12(1937)年、東京都日本橋生まれ。昭和31(1956)年、漫画家・清水崑氏門下へ入門。昭和35(1960)年崑氏の紹介により三代目桂三木助門下へ入門。昭和36(1961)年、林家正蔵門下へ移り、芸名が林家木久蔵となる。昭和44(1969)年、日本テレビ『笑点』のレギュラーメンバーとなり、昭和48(1973)年、真打ち昇進。絵画にも優れ、個展開催や画文集出版を行う。平成28(2016)年、浅草公会堂前「スターの手形」に手形が設置される。現在、(一社)落語協会相談役・(公社)日本漫画家協会参与など精力的に活躍中。

林家木久蔵さん Kikuzo Hayashiya
 昭和50(1975)年、東京都三鷹市生まれ。平成7(1995)年、初代林家木久蔵(現・木久扇)に入門。芸名は林家きくお。平成19(2007)年、真打ち昇進に伴い、落語会史上初「ダブル親子襲名」を行い、二代目林家木久蔵を襲名。平成27(2015)年、「林家木久蔵 噺家生活20周年落語会」にて親子三代口上に並ぶ。同年より東京新聞で「笑いを楽しむ 大学対抗大喜利選手権」を連載中。平成30(2018)年、「笑顔でつなぐ木久蔵流・地域コミュニケーション」のテーマで笑いと健康について講演。

※写真はPDFをご覧ください。

みたか井心亭(せいしんてい)
昭和58年、当時この地にお住まいだった井上良則ご夫妻から土地の提供を受け、市が建設した本格的な茶室を備えた和風文化施設。市民公募により「井心亭」と命名された。茶道、華道などの文化活動の場として貸し出されているほか、毎月1回程度、落語会「寄席井心亭」を開催。庭内には太宰治ゆかりの百日紅(さるすべり)が移植されている。昭和63年開館。


※詳細はPDFをご覧ください。


市外局番「0422」は省略。 【主】主催者 【日】日時・期間 【人】対象・定員 【所】場所・会場 【講】講師 【¥】費用 【物】持ち物 【申】申込方法 【問】問い合わせ 【保育】保育あり 【手話】手話・要約筆記あり

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