緑と水の公園都市 三鷹市
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広報みたか2013年1月1日4面

■新春対談「三鷹が育んだ柔らかな感性で、人と自然が共生する世界を描く」

 三鷹市牟礼に生まれ、今もこの地にアトリエを構える日本画家の福王寺一彦さんは、日本藝術院の最年少会員であり、院展などで数々の賞を受賞されてきました。

 今年の新春対談では、清原慶子市長が上野の日本藝術院会館(※1)に福王寺さんを訪ね、牟礼で過ごした幼少期の原体験、父であり市の名誉市民である福王寺法林さんとの思い出、現在取り組んでおられる子どもたちに日本画の魅力を伝える活動などについてお聞きするとともに、三鷹市の緑と水の公園都市づくりを実現する大切さについて語り合いました。

新春対談 福王寺一彦さん×清原慶子市長

高山小で過ごした6年間と中学・高校時代のクラブ活動の思い出

清原 福王寺さんはどちらの小学校のご出身ですか。

福王寺 市立高山小学校です。昭和37年に入学し、43年に卒業しました。その時の同級生とは今も仲良くしています。

清原 当時は、もっと自然が豊かだったのでしょうね。

福王寺 竹薮や雑木林がたくさんありました。それに麦畑やキャベツ畑もあって、自然が豊かな環境の中で育ったという記憶がありますね。

清原 幼い頃から絵はお描きになっていたのですか。

福王寺 はい、小学校入学前からさまざまなものを描いていました。身の回りの物、風景、カラスウリやススキ、カタクリの花などの植物やカブトムシやクワガタなどの昆虫をよく描きましたね。

清原 描くことを楽しんでいらした様子が目に浮かびます。中学、高校は成城学園で学ばれたということですが、その時代の印象的な出来事はありますか。

福王寺 サッカー部に入って、毎日の練習や走り込み、土・日曜日は対抗試合によく出ていましたね。

清原 スポーツ青年だったのですね。そのきっかけはどのようなことですか。

福王寺 実は、高山小の時からサッカーが好きで、担任の伴健利先生が一生懸命に応援してくれました。卒業式の当日に南浦小との対抗試合を組んでくださったのです。

清原 ちなみにどちらが勝ったのですか。

福王寺 押して押されて、なかなかゴールが決まらず、0対0の引き分けでした。45年以上前のことですが鮮明に覚えています。

清原 それは素晴らしい思い出ですね。中学、高校では美術部にも参加されていたと聞いていますが。

福王寺 はい。学園の文化祭では美術部展を開催して、作品を発表しました。

清原 やはり日本画ですか。

福王寺 日本画の岩絵の具で抽象画に近いものを描いていました。当時の作品は、最近の個展や図録にも掲載しています。

清原 高校時代の絵にはどのような感想が寄せられていますか。

福王寺 ある先輩作家の先生に『素直な感覚や純粋性のようなものは、高校生の時に描いた「月の光」の作品が一番いいんじゃないか』と批評していただいたことがあります(笑)。

父のヒマラヤ取材に同行し、ネパールで見た日本の原風景

清原 お父様の福王寺法林さんは、日本画の第一人者でいらっしゃいました。幼い頃、福王寺さんは、画家であるお父様のことをどう思われていたのですか。

福王寺 師であり、父である法林が、アトリエや、取材先で、真摯(しんし)に絵を描くところを幼い頃から見てきました。6歳の時に事故で左目を失明した父は、右目だけで一生懸命に作品に向き合ってきました。私は小さい頃、父の左目が見えないということに気づいていなかったのです。母からそれを聞き、とてもびっくりするとともに、感動しました。絵描きとして日本画の世界で頑張っていこう、と考えたのはそれからなのです。

清原 そのように画家を志されたのは何歳の時ですか。

福王寺 小学校に入る前の幼い頃、5、6歳の時ですね。心のどこかで絵描きになりたいと思っていましたね。

清原 そうすると、目の前にいらっしゃったお父様のお姿にご自身の将来を見ていたのですね。

福王寺 そうですね。描く対象や技法はそれぞれ違いますが、絵を描くうえでの制作態度については、父や父のまわりの先生方から学ぶことは多くありましたね。

清原 お父様にはヒマラヤを題材とした代表作があり、福王寺さんもヒマラヤを描いていますね。

福王寺 父が目が不自由だったこともあり、私が同行してネパールのヒマラヤの取材に行きました。初めて行ったのは19歳のときで、父が53歳のときですね。

清原 40年近く前ですね。当時、どんなことをお感じになったのでしょう。

福王寺 最初に行ったときは、かなりのカルチャーショックを受けました。ネパールのルンビニはシャカムニが生まれた仏教発祥の地ですが、ヒンズー教やラマ教、それぞれに独自の文化を築いています。海外の文化に触れて、日本に昔からあった原風景の素晴らしさを再発見し、日本を見直す機会になり、とてもよかったですね。

清原 それから何度も行かれるなかで、日本との共通点と相違点を感じながら、その体験が福王寺さんの作品群に映し出されていくのですね。

幾重にも色を塗り、夜に耀(かがや)く闇を群青色で表現

清原 福王寺さんの作品には、私も感動した『追母影(おもかげ)』という人物画の作品もありますが、一方で、自然への深い愛情を感じる作品が多くあります。特に、小鳥や木々の葉など自然界の「小さきもの」を愛おしんでいらっしゃるという印象を受けます。そのようなテーマの絵を描かれるという想いはどこから来ているのでしょうか。

福王寺 やはり生まれ育った三鷹市の影響が一番大きいでしょう。小さい頃に見た木々や動物。太陽が昇り、沈み、月が昇っていく風景。三鷹市で育ち、目にしてきたものが、私の中で原風景として焼き付いています。

清原 昭和30〜40年代の三鷹市の風景が心の中の原風景としてあり、それが作品に表れているのですね。そして今日は、特別に『月の耀く夜に』をこの部屋に飾っていただきました。福王寺さんの作品は、群青色がとても深いように感じます。

福王寺 実は下地には黒、黄、赤、茶、緑といった岩絵の具を何重にも塗るのです。とりわけマラカイト(※2)という鉱物を原料としたグリーン、緑青をベースに塗ります。その上に群青色を塗っていくのです。

清原 表面には群青色が塗られるけれど、その下には湖や森の色がしっかりと収まっているわけですね。この神秘的な色使いは、どのように言葉で表現したらよいか分かりません。

福王寺 この群青色は、アジュライト(※3)という石からできる顔料です。明るいけれど、暗い。矛盾した言葉ですが、暗いけれど、耀(かがや)いている。そんな作品を表現したかった。この群青色が、その感覚を表現するのに一番ふさわしかったのです。

清原 私も小学生の頃に「ぐんじょう」と書かれた絵の具をパレットに出したときのことを鮮やかに覚えています。月夜の海、日が昇る前の海、そして夜に耀く闇。明るいけれど、暗い、暗いけれど、耀いている。それが群青色なのですね。

福王寺 そうですね。表現者としての自覚を持ち、そのイメージを追求して描いています。

清原 観る方には伝わっていると思いますよ。市庁舎にはお父様の福王寺法林先生の作品を展示しています。平成16年に文化勲章を受章されたとき、その直後に仕上げた『ヒマラヤの朝』という作品を寄贈していただきました。現在は市長室の入り口正面に飾らせていただいています。

福王寺 父の作品を大切にしていただき、ありがとうございます。

暮らしの中の緑が豊かな三鷹市であってほしい

清原 その法林先生が生前に実現できなかったことに、子どもたちに日本画の魅力を伝えることがあったと伺っています。福王寺さんは、今、その活動に取り組んでいらっしゃるのですね。

福王寺 「子ども 夢・アート・アカデミー」という文化庁と日本藝術院との共同の取り組みです。これは、学校からの求めに応じて、日本藝術院の各分野の会員が学校を訪れ、授業や講演を行うという事業です。小学校から高校までが対象ですが、日本画を担当する私は、昨年中に小学校や中学校、合計で28カ所29校で行いました。

清原 子どもたちはどんな様子ですか。

福王寺 小学生や中学生の時代はとにかく集中力があります。日本画について、画家としての生活、自然から学ぶことやそれぞれの個性について話してから、墨と水彩絵の具を使って描いてもらいます。その作品を拝見すると、子どもたちの絵には伸び伸びとした感性の素晴らしさがあり、それを大切にしてほしいなと思いますね。

清原 福王寺さんにとっては、幼い頃、今につながる柔らかな感性を培った場所が三鷹市であり、今も市内のアトリエで制作をされていらっしゃいますね。

福王寺 小さい頃、家のまわりには雑木林があって、そこに来るいろいろな鳥たちを見たり、声を聞いたりしていました。当時見た鳥たちの姿を、今も描いています。

清原 市内には今も雑木林が残り、鳥の声が聞こえますね。

福王寺 今もよく市内をスケッチに出かけますよ。自然が残っているというのは、本当にありがたいことですね。三鷹市にはこれからも自然を残し、都市緑化を進めてほしいと願っています。

清原 雑木林を維持できる環境というのは、人の暮らしにとっても大切だと思いますので、これからも「緑と水の公園都市」の取り組みとして都市の緑を守ってまいります。どうぞ応援をよろしくお願いします。

福王寺 私の作品は里山の風景が多いのです。今年も自然と人間が共生することの大切さを描いて、日本画として表現していきたいと思います。

清原 ぜひ、作品はもちろんのこと、「子ども 夢・アート・アカデミー」の活動などを通じて、これからも大切なことを私たちに伝えていただきますようお願いします。本日は本当にありがとうございました。

清原慶子市長 Keiko Kiyohara
昭和26(1951)年生まれ。慶応義塾大学、同大大学院で学んだ後、ルーテル学院大学文学部教授、東京工科大学メディア学部教授・学部長を経て、平成15(2003)年、第6代三鷹市長に就任(現在3期目)。内閣官房「郵政民営化委員会」をはじめ、内閣府、総務省、国土交通省などの審議会等の委員や東京都市長会総務・文教部会長、東京都市区長会監事、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団副理事長などを務める。「市民参加と協働」「行財政改革」の2つを市政の基礎に位置付け、「都市再生」と「コミュニティ創生」を最重点とした高環境・高福祉のまちづくりを推進している。

福王寺一彦さん Kazuhiko Fukuoji
昭和30(1955)年、三鷹市生まれ。成城学園高等学校を卒業し、日本画家である父の福王寺法林氏(三鷹市名誉市民)に師事。昭和53(1978)年、第63回院展に初入選以来、日本美術院賞、文部大臣賞、内閣総理大臣賞、日本芸術院賞などを受賞する。(財)日本美術院同人、文化庁文化審議会著作権分科会委員、日本美術著作権連合理事長などを務め、平成22(2010)年より日本藝術院会員。同院の社会貢献事業「子ども 夢・アート・アカデミー」で全国の小・中学校を訪問し、子どもたちに日本画の魅力や素晴らしさを伝えている。三鷹市内のアトリエで創作活動を行っている。

※1 日本藝術院会館
建築家吉田五十八氏の設計により昭和33(1958)年に上野公園内に竣工。平屋の和風建築で日本庭園を有し、中庭とその周囲に廻廊をめぐらし、平安朝時代の優雅、典麗の雰囲気を主調として現代的な姿にアレンジされている。平成15(2003)年に日本建築学会などによって「日本におけるモダン・ムーブメントの建築100選」に選ばれた。日本藝術院会員の会議・懇談や日本藝術院賞授賞式などに使われるほか、展示室では日本藝術院所蔵の美術作品を一般公開(不定期)している。
※2 マラカイト
孔雀石(くじゃくせき)ともいう。代表的な銅の二次鉱物で銅鉱石が風化して形成される。粉末・精製したものを日本画の顔料(岩絵の具)として古くより使用されている。「緑青」とも呼ばれる。
※3 アジュライト
藍銅鉱(らんどうこう)ともいう。代表的な銅の二次鉱物で銅鉱石が風化して形成され、マラカイトとともに採れることが多い。粉末・精製したものを日本画の顔料(岩絵の具)として古くより使用されている。「群青」とも呼ばれる。

福王寺一彦さんの今後の個展は、平成25年4月4日(木)〜10日(水)に東武百貨店池袋店6階美術画廊で開催予定。


※詳細はPDFをご覧ください。


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