緑と水の公園都市 三鷹市
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広報みたか2012年1月1日4面

■新春対談「大事にしなければいけないもの 継続していくことの大切さ」

宮崎吾朗さん(アニメーション映画監督・三鷹の森ジブリ美術館初代館長)
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清原慶子市長

 三鷹市立アニメーション美術館「三鷹の森ジブリ美術館」は昨年、10歳の誕生日を迎えました。民間と行政が協力し合って設立、運営する画期的な日本初のアニメーション美術館を立ち上げた中心人物は、昨年夏に監督第2作『コクリコ坂から』が公開された宮崎吾朗さんでした。

 美術館の管理運営を行う公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団の理事として、市長就任前の設立時から美術館の運営に関わってきた清原慶子市長が、宮崎吾朗さんに館長時代の思い出や映画づくりの裏話、そして三鷹市との関わりについてお聞きしました。

自由な鑑賞を保証するために市の理解を得て、入場を制限

清原 吾朗さんはジブリ美術館の初代館長でしたが、どんな経緯で就任されたのですか。

宮崎 美術館を作るので中心的な人物が欲しいということで、プロデューサーの鈴木敏夫に「やってみないか」と言われて、1998年の10月にスタジオジブリに入社しました。すると1週間もしないうちに、美術館の事業会社の社長をやれと言われて。

清原 その当時、おいくつだったのですか。

宮崎 31歳です。

清原 その流れで館長も務められたんですね。

宮崎 館長は名誉職でもっと偉い方がなるものだと思っていたけれど、鈴木に「現場の責任者がやるべきだ」と言われて、結局僕がやることになったんです。

清原 どこか参考にした美術館はあったのですか。

宮崎 なかったですね。宮崎駿の発想をかたちにするには、なぜ普通の美術館はおもしろくないのか?を分析しなければならなかった。結局、普通の反対をすればいいことが分かりました。逆転の発想ですね。それに行政と民間が一緒に事業を立ち上げるのも当時はまだあまり前例がなかった。

清原 民間の力を行政が生かす。私は当時一市民でしたが、とてもユニークな取り組みが始まると思って期待していました。

宮崎 正直、三鷹市だからできた、という面もありました。直前になって入場予約制を導入できたこともそのひとつです。建物そのものがある種作品の世界に入っていくような美術館で、来場者には自分で歩いて自分で見て、映画を体験するのと同じような感覚で自由に受け止めてほしいという思いがあったので。

清原 見る側の自由な鑑賞を保証するために入場人数を制限し、安全にそしてゆったりと展示を楽しんでもらう。それが実現したのは、ジブリと三鷹市の想いがひとつだったからだと思いますよ。また、日本ではあまり知られていない海外のアニメーションを紹介するなど、企画展示についても前例のない試みをされていました。

宮崎 ジブリじゃないものをあえて扱うことで、自分たちも息切れしないようにと思っていました。

主人公を理解するプロセスが映画づくりのプロセスそのもの

清原 昨年は映画『コクリコ坂から』が公開されました。2作目の監督作品ですね。制作のエピソードなどを教えてください。

宮崎 まず最初に、美術館で働いている60代の女性に話を聞きました。

清原 当時、主人公の海ちゃんだった世代の方々ですね。

宮崎 そうです。生活の感じとか、高校生の男女関係はどうなっていたのかとか聞きたいなと。それが最初の手助けになりましたね。写真や卒業アルバム、ラブレターまで見せてもらいました。

清原 そんな素晴らしい時代考証があったのですね。さて、アニメーションの演出とはどのようにするのですか。

宮崎 監督にはいろいろなタイプがいます。宮崎駿はものすごく主観的。極端に言えば主人公と一心同体となる。対極なのは高畑勲です。引いたところから冷徹に観察して、ドキュメンタリーのように作品を創っていく。

清原 吾朗さんはどちらですか。

宮崎 どちらでもありませんね。今回の作品では、宮崎駿が書いた主人公がどんな人物であるかを理解しようとした。分からない人のことを理解しようとするプロセスが映画づくりそのものです。1、2メートルの距離感で主人公を見ているような感覚です。

清原 そうやって感じたことをスタッフに伝えるんですね。

宮崎 思ったのは美術館づくりをやっておいてよかったということ。建築にしてもアニメーションにしても、何を創りたいかを制作スタッフに伝えなければならない。言葉で説明したり、絵を描いたりしながら、自分が行きたい所を示す。きちんと伝えなきゃいけないというのは、どちらも同じです。それに我慢することも覚えましたしね。

清原 市政にも共通しますね。市長にどんなに強い思いがあっても、実際に活躍してくれるのは市民の皆様であり、市の職員です。イベントひとつにしても市民の皆様の参加と協力なしでは実現しません。ですから、最近は映画を見るにしてもエンドロールが気になるようになってしまいます。こんなに多くの人たちが関わっているのかといつも感心しますよ。

宮崎 少ない人数でできれば、それに越したことはないんですけどね。

清原 ところで、そんな映画づくりをしているときに、気分転換はどのようにされるのですか。学生時代に長野にいらしたから、やはり山登りや高原などに行かれるのですか。

宮崎 行きませんね。行っても楽しめないですよ。頭の中は映画のことだけですから。仕事の悩みは仕事でしか解消できない、と思いますよ。

清原 それは私も同感です!

映画づくりをやめてしまえば思い出美術館になってしまう

清原 吾朗さんは三鷹市にどんな印象をお持ちですか。

宮崎 三鷹って、東京の波打ち際だと思っているんです。三鷹から東に行くと都心。西に行くと多摩地域ですよね。ちょうど浜辺みたいじゃないですか。都会的な香りと田舎っぽさがちょうどいいバランスのエリアだと思うんですね。

清原 波打ち際って、いい表現ですね。その個性をこれからも守り、磨いていきたいですね。三鷹市に期待することや提案することはありますか。

宮崎 『コクリコ坂から』を創っているときに、コラムニストの天野祐吉さんが「昭和30年代は本当にいい時代だった。それ以前は戦争で血まみれで、それ以後は金まみれになっていった」と新聞のコラムに書いているのを読みました。

清原 昭和30年代は『コクリコ坂から』の時代ですね。

宮崎 その時代の、大事にしなければいけないものがあると感じました。映画を創るのにずいぶん当時の写真を見ましたけど、当時は、建物を建てること、とりわけ小学校なんて建てるのは地域の誇りだった。子や孫の代まで続くものを残したいという思いがあった。人が暮らしていくことは、暮らしを継続していくことです。それはまさに行政の仕事でもある。変えることが大事だと言われていた時代もありましたが、今はそれを見直さなければならないと思いますね。

清原 そうですね。三鷹市では第4次基本計画をまとめつつあって、その軸として「都市再生」と「コミュニティ創生」を置きました。最近では東台小学校の耐震建て替えをしたのですが、その時は児童、保護者や教職員、地域の人々に意見をお聞きしました。その結果、建物の高さは低くなり、太陽光発電や屋上緑化が取り入れられました。みなさんのご意見を聞くことによって、最先端の建物というよりは、居心地のよい建物に落ち着いたんですよ。

宮崎 三鷹市は意見を聞いて話し合い、可能性を探っていこうというのがベースにある。それはすごく大切です。行政任せでは無理だし、予算をどんどんかければよいというわけではありませんからね。

清原 吾朗さんはこれから、三鷹市との関わりをどのようにお考えですか。

宮崎 僕はジブリ美術館がずっと続いていけることが何よりも地域への貢献だと思っています。そのためにはスタジオジブリが続いていかなきゃいけない。映画を創るのをやめてしまえば、途端にここは「思い出美術館」になる。美術館のスタッフがどんなに頑張ったところで、衰退に向かっていくことでしょう。継続を考えれば、スタジオジブリにも続いてもらわなきゃ困る。『ゲド戦記』の企画に最初、オブザーバーとして参加したのは、美術館が続いていくには若い世代の監督が出てくる必要があるし、応援したいと考えたからです。いつの間にか自分が監督をやることになってしまったわけですが(笑)。

清原 続けていくことの大切さですね。三鷹市も「サステナブル都市」を目指しています。持続可能であることを当たり前のものとせずに、職員と専門家が一緒になって自治体経営を考えていくことに取り組んでいます。ジブリ美術館も、吾朗さんが館長から監督になったことで、継続性が高まっていくということですね。

宮崎 いろいろなものが過去にならないようにしていかなければならないと思っています。

清原 では最後にもう一つ。今年はどんなことに挑戦されますか。

宮崎 まだ内緒ですが美術館である企画を仕込んでいます。ちょっとそれ以上は言えないのですが。

清原 乞うご期待ですね。楽しみにしています。今日は本当にありがとうございました。

清原 慶子市長 Keiko Kiyohara
昭和26(1951)年生まれ。慶応義塾大学、同大大学院で学んだ後、ルーテル学院大学教授、東京工科大学メディア学部教授・学部長を経て、平成15(2003)年、第6代三鷹市長に就任(現在3期目)。内閣府、総務省、国土交通省、文部科学省などの委員や全国市長会「共通番号制度」及び「子ども子育て新システム」専門部会構成員、東京都市長会厚生部会長、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団副理事長などを務める。「市民参加と協働」「行財政改革」の2つを市政の基礎に位置付け、「都市再生」と「コミュニティ創生」を最重点とした高環境・高福祉のまちづくりを推進している。

宮崎 吾朗さん Goro Miyazaki
昭和42(1967)年、東京生まれ。信州大学農学部森林工学科卒業後、建設コンサルタントとして公園緑地や都市緑化などの計画、設計に従事。その後、平成10(1998)年より三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手掛け、13(2001)年より17(2005)年6月まで同美術館の初代館長を務める。平成16(2004)年度芸術選奨文部科学大臣新人賞芸術振興部門を受賞。平成18(2006)年『ゲド戦記』でアニメーション映画を初監督。23(2011)年夏公開スタジオジブリ映画『コクリコ坂から』で監督を務める。公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。

※詳細はPDFをご覧ください。

注釈

宮崎駿(みやざきはやお):日本を代表するアニーション映画監督。監督作品に『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『もののけ姫』などがある。『千と千尋の神隠し』では、アカデミー賞長編アニメ賞などを受賞。ジブリ美術館館主。三鷹市名誉市民。

高畑勲(たかはたいさお):アニメーション映画監督。監督したアニメーション作品に『じゃりン子チエ』『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』などがある。宮崎駿の先輩であり盟友。

鈴木敏夫(すずきとしお):アニメーション映画プロデューサー。昭和53(1978)年、徳間書店でアニメ雑誌の編集者をしていた時に宮崎駿に出会い、『風の谷のナウシカ』の映画化に尽力。昭和60(1985)年のスタジオジブリ設立以後は、全作品のプロデュースを手掛けてきた。

『コクリコ坂から』:平成23(2011)年公開のアニメーション映画。昭和38年の横浜を舞台に、まっすぐに生きる少女「海」や、その両親たちの親子2世代にわたる青春を描く。作中に登場する洋館「カルチェラタン」はジブリ美術館内の中央ホールの吹き抜けが参考になったという。企画・脚本、宮崎駿。


※詳細はPDFをご覧ください。


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