広報みたか2002年1月1日3面
■みたか観光マップ(解説)
(1)三鷹駅
JR中央線が開通したのは明治22(1889)年、当時は甲武鉄道とよばれていた。三鷹駅は40年後の昭和5(1930)年に開設したが、初めは南口のみで、北口の開設は昭和16(1941)年。昭和24(1949)年には戦後の社会不安の時代、「三鷹事件」がこの駅で起こっている。昭和42(1967)年の中央線特別快速停車に続いて、翌年4月から総武線、営団地下鉄東西線が乗り入れるようになった。昭和44(1969)年には三鷹橋上駅がオープン。南口と北口を結ぶ連絡通路も開通し、現在の形になった。
(2)独歩の碑
三鷹駅北口には「山林に自由存す」という『独歩吟』の一節が武者小路実篤の書で刻まれた碑が建つ。国木田独歩の二男で彫刻家の佐土哲二制作による独歩の上半身レリーフもはめこまれている。独歩の『武蔵野』に登場する桜橋や小金井堤は玉川上水のもっと上流。
(3)三鷹市美術ギャラリー
平成5(1993)年10月、三鷹駅南口のコラル5階に開館。勤め帰りにも利用しやすい午後8時まで開館している。近現代美術を主とした企画展示を開催するとともに、市民の美術作品発表の場となっている。
→美術ギャラリー(電話)79―0033
(4)iカフェ
平成12(2000)年4月にオープンした三鷹産業プラザ。その1階に、常時インターネット接続されたパソコンを配置したインターネットカフェ「iカフェ」がある。ビジネスの打ち合わせや待ち合わせはもちろん、フロアを貸し切っての展示会・ミニ講習会などの企画にも利用できる(要予約)。
→(株)まちづくり三鷹(電話)40―9669
(5)赤とんぼの碑・文学モニュメント
三鷹ゆかりの文学者は数多く、三鷹駅前から続く中央通りには多くの碑が建っている。三木露風にちなむ赤とんぼの碑は昭和52(1977)年に商店街の入口に建てられたもの。平成5(1993)年にこの碑の改修とともに、新たに名誉市民の山本有三・武者小路実篤、太宰治と亀井勝一郎の親交をテーマにした3つの碑を建立した。
(6)〈太宰の仕事場〉
太宰治は昭和14(1939)年から、終戦前後の疎開を除き、昭和23(1948)年6月に玉川上水に入水するまでを三鷹で過した。
昭和21(1946)年11月に疎開先の青森県金木から三鷹に戻り、三鷹での最初の仕事部屋として旧中鉢家の2階を借りた。商社に勤める女性が借りた部屋を女性が出勤している間、午後3時ごろまでという約束で借りたものだった。「メリイクリスマス」「ヴィヨンの妻」を執筆。建物は解体されたが、この部屋の部材の一部は市で保存されている。昭和22年4月から2番目の仕事場・旧田辺精肉店離れ(現第一勧業銀行)へ。「斜陽」の3章以降を執筆。編集者にも内密にした仕事場で、夜遅くまで電気がついていたという。22年5月には3番目の仕事場である旧西山家へ移り「斜陽」を完成。
昭和22年7月から4番目の仕事場・旧千草(現ベル荘)へ。よく通った飲み屋の2階を仕事場として借りたもので、その部屋の窓は、狭い路を隔てて、彼の死の道連れとなった山崎富栄の部屋に面していた。この山崎富栄の下宿であった旧野川家(現永塚葬儀社)の2階の一室も仕事部屋として使われた。そして昭和23年6月13日、この部屋から二人は玉川上水にむかうのである。
(7)ポケットスペース・玉鹿石
玉川上水沿いの「風の散歩道」にあるポケットスペースには、作家・太宰治が玉川上水について綴った一節を刻んだレリーフが設置されている。「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。(「乞食学生」より)」
太宰が玉川上水に入水した場所は今でもはっきりとしない。しかし「最後の場所を知りたい」というファンの要望にこたえ、履物がそろえて置かれていたとされる上水ほとりの大ケヤキの向かい側、「風の散歩道」の歩道上に、太宰の生まれ故郷・青森県金木町から取り寄せた特産の玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれている。「石に語らせるのではなく、見る人の想像に任せたい」と石には何も刻まず、無銘碑となっている。
(8)むらさき橋
むらさき橋は三鷹市と武蔵野市を結ぶ橋として、両市を結ぶ交通の利便性向上を目的に両市が協力して建設し、昭和30(1955)年に完成した。橋名は両市民からの公募により、両市が広々とした武蔵野原野にあった時に一面に咲き誇っていた「むらさき草」の名にちなみ命名される。橋台をそのまま残しその外側に新しく橋台を設けて橋を乗せるという工法により、平成9(1997)年に架け替えられた。
(9)品川用水
さくら通りには、かつて玉川上水の分水の一つ「品川用水」が流れていた。このあたり下連雀は、明暦の大火などの後に神田連雀町から集団移住させられた江戸町民が開いた村。品川用水の水を使って畑作を行っていた。東西65メートル、南北720メートルの短冊形の地割りの農家が、連雀通りに沿って南北に並び、「橋場」と呼ばれた南浦交差点が村の中心だった。用水路は戦後、昭和26(1951)年からの失業対策土木事業で暗渠化され、さくら通りは幅9メートルの市内初のアスファルト舗装道路となった。
(10)〈玉川上水〉
江戸の上水として造られた玉川上水は、承応2(1653)年に、多摩川中流の羽村の堰から四谷大木戸まで43キロメートルが開削された。江戸町民の上水として計画されたものだが、後には武蔵野台地に分水路が引かれ、飲み水や灌漑用水、水車の動力などに利用されて、新田開発に大きな役割を果たした。明治初期には、物資輸送のための通船も行われた。
かつては「人喰い川」と恐れられるほどの水量だったというが、上水としての役目を終えて空堀の時期が続き、昭和61(1986)年に東京都の清流復活事業で水がよみがえった。
(11)欅橋・庚申塔
欅橋は三鷹駅の西側、三鷹市域では玉川上水にかかる最も上流の橋である。道路が拡幅され昔の橋の位置はわからない。昔、ここに大木の欅があったとか、欅の橋を架けたなどの話が伝わる。橋のそばにある「観世音堂」も拡幅で今の場所に移設されたが、当初の位置は、上連雀の鬼門にあたるということで堂がつくられたようだ。堂内には、市指定文化財の庚申塔がある。享保14(1729)年建立。
(12)陸橋(三鷹電車庫跨線橋)
三鷹電車庫の開設にともなって昭和4(1929)年に造られた。電車庫の引込線と中央線線路をまたぐ全長90メートルの鉄骨の橋。日本最初の直径1メートルの電気大時計も設置されて話題になった。太宰治は、「いい所がある」と言っては、弟子を連れてここに来ていた。写真家・田村茂が撮影した二重まわし姿で遠い空をじっとみつめる橋上での太宰の写真はよく知られている。
(13)堀合遊歩道
堀合遊歩道は、昭和26(1951)年に中島飛行機武蔵製作所跡地に開設された「武蔵野競技場」(野球場)に通じていた三鷹駅からの電車・通称グリーンパーク線の線路跡。この球場は国鉄スワローズの本拠地だったが、プロ野球開催は実質1シーズンで打ち切りとなり、閉鎖されてしまった。玉川上水北側も遊歩道になっている。
(14)禅林寺・太宰治の墓
森外を尊敬してやまなかった太宰治は、禅林寺にある外の墓について、「花吹雪」(昭和19年発表)に「ここの墓所は清潔で、外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓所の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と書いている。その意を汲んで、美智子夫人が太宰をこの寺の外の墓の側に葬った。毎年6月19日の桜桃忌には、全国から多くの太宰文学愛好者がここに集まってくる。6月19日は太宰の遺体が発見された日でもあり、誕生日でもある。
(15)禅林寺・森林太郎(外)の墓
禅林寺の山門わきに森外の遺言碑があり、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(中略)墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」と刻まれている。遺言通り「森林太郎」とのみ彫られた外の墓は、昭和2(1927)年に向島の弘福寺からこの寺に移されたもの。それ以降、墓参のために、与謝野晶子や斉藤茂吉、永井荷風などが三鷹を訪れるようになった。
(16)三鷹市芸術文化センター
音響性能を重視したシューボックス型の「風のホール」(625席)、演劇や古典芸能などに適した「星のホール」(250席)、可動壁により5室に分割可能な美術展示・創作室、音楽練習室などがある芸術文化活動の拠点。三鷹市芸術文化振興財団によって音楽・演劇・美術などの多彩な企画事業も開催されている。
→三鷹市芸術文化振興財団(電話)47―5122
(17)〈御鷹場の碑〉
徳川家康をはじめ代々の江戸幕府の将軍は、鷹をつかって野鳥や兎などを獲らえる「鷹狩」を行い、井の頭周辺にもたびたび来ている。
江戸城を中心に5里(20キロメートル)以内は幕府の鷹場で、これより西が尾張徳川家の鷹場。三鷹はその境界にあり、「従是東西北尾張殿鷹場」などの文字が刻まれた境界を示す標石が、明和7(1770)年ごろに建てられた。現在、市役所南側の雑木林内、大沢の長久寺境内、野崎の吉野家門前に各1本ずつがある(移設されたもので、原位置は定かではない)。
ちなみに、「三鷹」という地名は、明治22(1889)年に、野方・世田谷・府中の3領に分かれていた鷹場の10の村々が合併したことから名づけられたという。
(18)井の頭恩賜公園
市民のオアシス・井の頭公園は、皇室の御料地となっていた御殿山や井の頭池周辺が大正2(1913)年東京市に下賜され、大正6(1917)年、日本初の郊外公園として一般公開された。
高木のみで約11000本の樹木があり、雑木林は昔の武蔵野の面影を残す。グリーンアドベンチャーコースも設けられている井の頭池の周囲は、春には桜が見事でお花見の名所。池ではボートも楽しめ、水鳥の種類も豊富。野外ステージ、陸上競技場、テニスコート、プールもある。
(19)井の頭池と神田上水
井の頭池は、徳川家康の命によって江戸の飲料水確保のためつくられた日本初の水道・神田上水の水源であった。池東端には上水取入口の石門が残る。西端の石井筒は「お茶の水」と呼ばれ、家康がこの水を江戸城のお茶の水に用いるよう命じたといういわれがある。三代将軍家光もこの池の水を好み、近くの辛夷の樹に小柄で「井之頭」と彫ったため、これが池の名となったとも伝えられる。「七井の池」と呼ばれたほど豊富だった湧水は昭和の中頃に枯れ、現在では深井戸の水を給水して景観を保っている。
池を取り囲むように旧石器時代の大規模な遺跡群もみられる。最初に発掘されたのは昭和37年、縄文時代中期の住居跡で、発掘記念石碑が建てられている。
(20)井の頭弁財天
井の頭池・中の島にある弁財天社は、縁起によると天慶年間(938〜946)に源経基により創建された。現在の社殿は昭和2(1927)年に再建したもの。
神田上水源の水神・音楽や芸能の守護神としての弁財天は江戸町人に盛んに信仰されており、周囲の水盤、石橋などには奉納した江戸商人の名が刻まれている。大盛寺門前の石灯籠は「紫灯籠」と呼ばれ、井の頭池の水を利用した「江戸紫」の染物で生計を立てた人々が寄進したもの。安藤広重の浮世絵「名所雪月花」「名所江戸百景」などにも描かれ、行楽にも人気の景勝地であったことがうかがえる。
(21)井の頭伝説・宇賀神像塔
日本神道古来の水神・宇賀神は弁財天と同じく信仰された。明和4(1767)年に寄進された宇賀神像(大盛寺門前)は上部に人間の顔をつけた蛇がとぐろをまいている。こんな伝説がある。弁天様に願をかけて玉のような女の子を授かった夫婦が、美しく成長した娘を連れて弁財天にお参りに行くと、娘は池に飛び込み、みるみる白蛇に変わってしまった。夫婦はせめてもの供養にと宇賀神像を作ったという。
(22)大盛寺
創建年代不詳。井の頭弁財天の守護寺。境内には明治時代の歌舞伎俳優・板東喜知六の句碑、国木田独歩、柳田国男など武蔵野を研究した学者たちの顕彰の碑のほか、江戸町人が奉納した石碑で最古といわれる享保5(1720)年建立の石灯籠などもある。
(23)道しるべ・黒門
弁財天への参道入口に、「神田御上水源・井の頭弁財天」「是より社まで一丁半」と刻まれた高さ2.4メートルの道しるべの標石がある。延亨2(1745)年建立。台石には、芸能の守護神・弁財天を信仰した当時の江戸の劇場名や俳優の名が刻まれている。標石のとなりには「黒門」と呼ばれる鳥居に似た黒塗りの木の門があるが現在のものは、大正13(1924)年に再建されたもの。江戸から大正時代、この参道は大いに賑わっていたといわれている。
(24)神明神社・高橋家
天文6(1537)年、小田原北条氏の家臣・高橋綱種が上杉家の深大寺城に対抗して牟礼の丘に陣し、境内鎮護のため芝飯倉神明宮を奉ったのが始まりという。祭神は天照大神。標高60メートル、市内でも高台に位置する。綱種の子・康種は小田原城落城後、牟礼に帰農。その子孫は江戸時代には代々名主を勤めた。
(25)巳待講燈籠
嘉永3(1850)年建立。井の頭弁財天までの道しるべと村内安全祈願を兼ねた石燈籠(市指定)。竜の浮き彫りなどの意匠が見事。もとは人見街道沿いにあったが、昭和44(1969)年、神明神社境内に移転された。
(26)真福寺
高橋康種は牟礼に定住した天正19(1573)年、日蓮宗の寺・真福寺を開き、高橋家の菩提寺とした。明治初期には、後に東三鷹尋常高等小学校の初代校長を勤めた高橋亭之助がここで1年あまり村童の教育にあたった。寺の本堂脇に百日咳、安産などに効験のあった釈宮氏という尼の僧霊神を奉る香煎霊堂がある。
(27)牟礼の里公園
市内でもいちばんの高台にあり、富士山の見える南西向きの斜面地。園内は梅林、竹林、栗林があり、コケやふきのとうなども自生する農家の庭先風の自然庭園。都市化のなかで残された農の風景が広がる「牟礼の里」の中心となる公園である。
(28)〈三木露風〉
「赤とんぼ」の作詞で有名な三木露風は、昭和3(1928)年から39(1964)年に交通事故で没するまで牟礼に住んだ。桑畑や雑木林に囲まれた旧居「遠霞荘」の跡には案内板がたっている。
露風は亡くなる昭和39(1964)年に地元・高山小の校歌を作詞している。昨年、新校舎がオープンした同校の学校図書館には、直筆の「赤とんぼ」などを展示した「三木露風コーナー」がある。なお、露風の生誕地・兵庫県龍野市と三鷹市は、平成13(2001)年4月に姉妹都市提携をした。墓所は大盛寺墓地内。入口の「赤とんぼ」の看板が目印。
(29)風の散歩道
三鷹駅から万助橋までの玉川上水に沿った800メートルの道で、緑と水の公園都市・三鷹のシンボル的な道路。名称は1000点を超える公募作品から選ばれた。御影石で舗装された歩道にしゃれたベンチ、ポケットパークやモニュメントの設置と、散歩するにも楽しいつくりになっている。さらに足跡のタイルや三鷹の森ジブリ美術館の案内板など、遊び心もいっぱい。揃いの照明灯・車止め・玉川上水の樹木をライトアップする装置により、夜景も美しい。沿道は昭和の初期に開かれた住宅街で見どころも多い。
(30)万助橋・松本訓導碑
万助橋は安政年間(1845〜60)までさかのぼれる市内で最も古い橋の一つで、初代はマツの木を3本並べたものだという。現在のものは日本古来の「はね高欄」の橋に。橋名は橋を架けた下連雀村の渡邊家の世襲名・萬助さんから。玉川上水に沿って井の頭公園に入ったところにあるのが松本訓導碑。大正8(1919)年、遠足中に上水に落ちた児童を助けようとして殉職した麹町区(現・千代田区)永田町小学校の松本虎雄訓導(先生)を記念したもの。当時、美談として大変な評判となった。
(31)三鷹の森ジブリ美術館
21世紀の開幕と共にオープン(平成13年10月1日)した美術館。三鷹市と徳間書店、スタジオジブリ、日本テレビの共同事業として実現した。スタジオジブリの作品を中心にアニメーションについて幅広く展示している。「建物は、それ自体が一本の映画としてつくりたい」という考えのもとに宮崎駿監督がデザインした。館内には不思議で面白いところがいっぱい。ここでしか見られないオリジナル作品の上映もある。
完全予約制なので事前に入場引換券を購入することが必要だが、入館しなくても屋上のロボット兵を見上げたり、カラフルな外観を眺めるだけでも楽しい。
◆入館方法
全国のコンビニエンスストア「ローソン」の端末で、入場引換券を販売しています。料金は大人1000円、中高校生700円、小学生400円、幼児(4歳以上)100円(受付ですてきな入場券と引き換え)。
◆開館時間
午前10時〜午後6時(入場は10・12・14・16時の4回、完全予約制ですが入替制ではありません)。
→三鷹の森ジブリ美術館(電話)0570―055777
(32)Pokiショップ
三鷹の森ジブリ美術館の開館にちなんで宮崎駿監督がデザインした三鷹のマスコットPoki(ポキ)のお店。キャラクター商品や、新作和菓子「鷹にまん月」を販売しているほか、休憩場所としても使える。美術館から三鷹駅へ帰るコミュニティバスの停留所も兼ねているので、ちょっと一服するのにも便利。
(33)井の頭自然文化園(本園・分園)
第二次大戦中の昭和17年(1942)に開園。当初より郊外型の動物園として、自然に近い環境で小動物を群で放し飼いする自然生態観察に力を入れていた。昭和50年代までは園内を闊歩するクジャクも。現在でも鳥が目の前を横切る「熱帯鳥温室」や、肩や頭に乗ってくる「リスの小経」、モルモットのコーナーなどがある。戦後初めて日本に来たゾウの「はな子」も高齢ながら健在。
ほかにも長崎の「平和祈念像」が作られたアトリエと北村西望作品の彫刻館、童謡「赤い靴」「井の頭音頭」の野口雨情の住居を移築した茶会なども開ける童心居には水琴窟、かわいいメリーゴーランドのある遊園地、資料館と見どころは多い。
分園には日本の水鳥がいっぱい。水生物館では本物のカワセミやカイツブリが目の前で魚を捕まえる姿やムサシトミヨの巣作りも見られる。メタセコイヤなどの樹木も注目もの。
◆開館
午前9時30分〜午後4時30分(入園は4時まで)、月曜日休園。大人400円、中学生150円、小学生以下・65歳以上は無料。
→同園(電話)46―1100
(34)山本有三記念館
作家で三鷹市の名誉市民でもある山本有三が昭和11年(1936)から進駐軍に接収される21年(1946)まで住んだ家。「新編路傍の石」「米百俵」などの名作が生れたところ。戦争中には有三が「ミタカ少国民文庫」を開いた。大正期末建築の折衷様式の洋館で、南側に整備された有三の愛した竹林や芝生、池のある庭も美しい。館内は重厚な作りの暖炉や階段などがそのまま保存されていて、山本有三に関する展示やイベントなどを見ることができる。
◆開館 午前9時30分〜午後4時30分(休館日=月曜日)。
→同記念館(電話)42―6233
(35)みたか井心(せいしん)亭
純和風の文化施設で、茶道・華道・歌会などに利用できる。茶道具などの貸出しもある。庭は小さいながら本格的日本庭園で、ここにある百日紅(さるすべり)は近くにあった太宰治の家から移植したもので、垣根越しに外から見ることもできる。
→井心亭(電話)46―3922
(36)〈みたかシティバス〉
従来のバスでは不可能だった狭い道でも運行できるコミュニティバス。現在走っているのは次の5ルート。
(1)北野ルート(三鷹駅〜北野地区)
(2)三鷹台ルート(三鷹駅〜三鷹台駅)
(3)西部ルート(武蔵境駅〜調布飛行場)
(4)三鷹の森ジブリ美術館循環ルート(三鷹駅〜同美術館)
(5)明星学園ルート(三鷹駅〜同学園前)
赤いボディカラーも鮮やかな「赤とんぼバス」に(4)ルートにはスタジオジブリデザインのバスも加わって、街に彩りを添えている。
◆運賃 大人200円、小人(小学生以下)100円。
※(4)、(5)ルートには、美術館見学にも便利な往復割引券(大人300円、小人150円)あり。
野川エリア
(37)水車・しんぐるま
峯岸家の水車の創設は、文化5(1808)年ごろ。大正8(1919)年に大改造されている。水輪の直径約4・7メートル、幅約1メートルの胸掛け式の製粉用大形水車である。昭和43(1968)年に野川の改修によって引水できなくなり、160年ほどの水力稼動は停止した。精密な歯車や杵構造などがそのまま保存され、母屋や土蔵などとともに東京都有形民俗文化財に指定されている。
→(見学は要予約)(株)まちづくり三鷹(電話)40―9669
(38)野川公園
野川公園は、国際基督教大学のゴルフ場を買収・整備し、昭和55(1980)年に開園。広々とした芝生に、かつてのコースに沿って豊富な樹々が連なる。野川の北側には自然観察園があり、多くの野鳥・野草、水辺の昆虫などを観察できる。
(39)大沢・ほたるの里
「はけ」と呼ばれる国分寺崖線からは多くの湧水が流れ出し野川に注ぎ込んでいる。市民グループが環境保護活動を行っている大沢の「ほたるの里」一帯には、湧水による湿性花園、田んぼ、わさび田などが広がり、年間を通してレンゲ祭り・田植え・ホタル祭り・稲刈り・収穫祭などが開催されている。
→(株)まちづくり三鷹(電話)40―9669
(40)出山横穴墓群保存施設
平成5(1993)年に発掘調査された「出山横穴墓群8号墓」を現地保存し、常時公開している遺跡見学施設。7世紀ごろの築造とされる。施設に入ると照明が自動点灯し、人骨レプリカを使って発見時を再現した内部が見え、音声による解説が聞ける。
(41)国立天文台
日本の天文学研究の中心。現在地に移転して来たのは大正13(1924)年。長い間、「東京天文台」の名称で親しまれてきたが、昭和63(1988)年、「国立天文台」と改められた。平成12(2000)年7月から、第一赤道儀室・アインシュタイン塔・大赤道儀室など歴史的建造物を中心としたエリアが常時一般公開され、より身近な施設として親しまれている。
→国立天文台(電話)34―3688
(42)ICU・湯浅八郎記念館
昭和24(1949)年創立。キャンパスには武蔵野の雑木林がそのまま残る。湯浅八郎記念館は昭和57(1982)年開館。初代学長の湯浅博士収集の陶器や染織などの民芸品と同大学構内などから出土した考古学資料を中心に展示。
→同館(電話)33―3340
(43)中近東文化センター
三笠宮崇仁親王殿下のご発意のもと、故出光佐三氏の協力で出光美術館収蔵のオリエント美術品を移して昭和54(1979)年開館。古代エジプトやメソポタミア文明などの土器・金属器・ガラス器・陶器・布・装身具・写本などが一般公開されている。
→同センター(電話)32―7111
(44)龍源寺・近藤勇の墓
龍源寺門前には、六地蔵・庚申塔などと並んで、新撰組として知られる近藤勇の胸像がある。勇の墓石は本堂のうらの墓地入口近くにあり、訪れる人が多い。
仙川エリア
(45)丸池
豊富な湧水により「千釜の池」と呼ばれ、「仙川」の語源になったといわれる池。流れがはっきりしない仙川での明確な水源として敬われていた。周辺には水神を祭り雨乞いの伝統が残る勝渕神社、下流の村の寄進による弁財天のほこらがある。昭和44(1969)年に埋め立てられたが、平成12(2000)年に市民作成のプランによって復活した。
(46)丸池の里
新川丸池公園、丸池雑木林公園、原っぱ公園、梅林など、自然景観を生かした公園がたくさんある。エリア内には柴田勝家の兜塚を祭る勝渕神社がある。
丸池の里に沿ったあたりの仙川では、驚くほど多くの種類の鳥たちと巡り合え、コサギやカワセミとの遭遇率も高い。
丸池の里では、市民グループ「丸池の里わくわく村」が、年間を通じていろいろなイベントを開催しているので、参加してみるのも楽しい。
→(株)まちづくり三鷹(電話)40―9669
(47)仙川公園
仙川をまたいで、南北に広がる公園。北側には噴水や芝生が整備されていて、陽気の良い日にはせせらぎで遊ぶ子どもたちも多い。南側にあるのは有名な長崎の「平和祈念像」や「アンネ・フランクのばら」のある広場。
8月に行われる三鷹市の平和祈念式典はここからスタートする。
(48)新川天神山青少年広場
小高い丘の雑木林で、宿泊キャンプもできる公園、これが実は小さいながらお城の跡。仙川に突き出した土地を堀と土塁で切り離した単純な形だが、現在、市内で直接見ることができる唯一の中世の遺構。城の防御施設である横矢掛りなども確認できる。
ここの仙川対岸の旧地名が島屋敷。新川公団ができる前は、雨が降ると湿地に浮かぶ島のようになったという。江戸時代には柴田勝重の陣屋があったといわれ、調査でも多くの中、近世の遺物が発見されている。
(49)第五中学校遺跡
縄文時代中期の大集落跡。長期間に渡って居住地として利用されていて、今まで調査された区域だけでも73棟の住宅跡が確認されている。全体では200棟以上と推測されている「三鷹のまほろば」とも言える地域。出土品は一部が第五中学校に展示されているほか、遺跡調査会事務所で見ることができる(いずれも見学は事前連絡が必要)。
→同調査会(電話)48―9454(月〜金曜日午前9時30分〜午後4時)
(50)柴田勝重の墓・多摩大仏
春清寺は慶長7年(1602)の開基。墓地には、江戸時代の初めに仙川周辺を知行していた柴田勝家の孫・勝重の墓がある。
また、同寺には華美な色彩をしたスリランカ風の金色大仏もある。
「みたか観光ガイド協会」のご案内
太宰治ゆかりの場所や風の散歩道など、三鷹市内の観光スポットを無料でご案内するボランティア団体。平成11年6月設立。メンバーは定年を迎えた男性や子育てを終えた女性などが中心で、一人ひとりがそれぞれの視点と語り口で案内するユニークで心のこもったガイドは全国的に評判を呼んでいる。現在、新たに大沢・野川コースを計画中。
◆定例ガイド「太宰治の足跡案内」
太宰の仕事部屋跡や馴染みの場所、墓などのほか、三鷹を愛した作家たちゆかりの場所をめぐる約2時間30分の市内散策。希望者は太宰ゆかりの鮨屋で昼食も。
}毎月(12月〜2月は休み)第4日曜日午前9時50分、三鷹駅南口デッキ上(ガイドののぼりが目印)集合(雨天決行)。
※グループや団体でのガイド希望は随時受け付けています。
◆「三鷹の森ジブリ美術館」コース
三鷹駅から風の散歩道を歩いて、玉川上水と太宰治、山本有三記念館、井の頭公園などを紹介しながら美術館までご案内。
}日曜日の午前中、三鷹駅南口デッキ上に宮崎駿監督デザインのキャラクター「Poki」のイラスト入りジャンパーを着たメンバーが立っています。時間などくわしくはお問い合わせください。
→同協会(小谷野宅)(電話)・(FAX)44―0981
このマップはみたか観光ガイド協会のみなさんのご協力により作成しました。
●三鷹に関する本・マップ
◇「てくてく・みたか 市内歴史散歩」
三鷹市文化財専門委員会監修・三鷹市教育委員会発行・定価470円(市役所情報公開総合窓口・市政窓口・書店などで販売)
◇「三鷹文学散歩」
大河内昭爾監修・三鷹市立図書館編・定価税込1,200円(図書館・市役所情報公開総合窓口・市政窓口・芸術文化センター・書店などで販売)
◇「多摩文学紀行」
山本貴夫著・たましん地域文化財団発行・けやき出版・定価本体1,500円
◇「ひとり文学する太宰マップ」98.11.10改訂版
みたか太宰の会作成
◇三鷹文学散歩マップ
山本貴夫監修・三鷹市教育委員会発行
◇三鷹市ガイドマップ(三鷹市全図11,000分の1)
三鷹市発行・定価70円(市役所情報公開総合窓口・市政窓口で販売)
編集・発行 三鷹市企画部広報課
〒181-8555三鷹市野崎1-1-1
(電話)0422-45-1151 内線2133
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【主】主催者 【人】対象・定員 【日】日時・期間 【所】場所・会場 【¥】費用(記載のないものは無料) 【物】持ち物 【申】申込方法 【問】問い合わせ 【保】保育あり