戦争とまちの歴史
大正から昭和へ 地域の発展と戦争の足音
武蔵野・三鷹地域は、大正12(1923)年の関東大震災以降、急激に人口が増加し、郊外都市として発展していきました。しかし、昭和に入ると、日本全体が戦争に向かう流れの中で、この地域にも大きな変化が訪れます。昭和10年代には、戦闘機やその部品、無線機やレーダーなどの通信機器を生産する軍需工場などが次々と設置されました。
武蔵野と三鷹に工場が集まった背景には、都心に近く、交通や物流に便利であったことが関係していました。また、大量の労働力と広い敷地が必要だったため、この地域が工場用地として選ばれたのです。
空襲の記憶と、人々の暮らし
武蔵野市には「中島飛行機武蔵製作所」が設立され、航空機エンジンの生産が進められました。一方、三鷹市には軍用機の研究・開発を行う「中島飛行機三鷹研究所」が置かれました。広大な敷地を持つこれらの工場、研究所では、多くの労働者が働いていました。これらは国内でも重要な軍需拠点であり、多くの関連企業や下請け工場も集まりました。
中島飛行機は、日本を代表する航空機メーカーで、戦時中は多くの軍用機やエンジンの生産を行っていました。武蔵製作所は、約4万5千人から5万人もの従業員が働き、国内生産の大きな割合を占めていました。そのため、米軍はこの工場を攻撃目標とし、昭和19(1944)年11月24日に空襲を行いました。これが首都圏におけるB-29爆撃機による空襲の始まりとされています。その後も空襲は複数回行われ、工場だけでなく周辺の住宅地にも被害が及び、多くの人々が犠牲になりました。
アジア太平洋戦争末期、人々の暮らしは、常に空襲への恐怖と隣り合わせでした。工場で働く人々は、空襲警報に怯えながら働き、住民も食糧や日用品が制限され、家族や地域で支え合いながら日々を送っていました。
記憶を伝え、平和を考える場所へ
終戦後は、軍需工場の跡地は大きく姿を変えました。現在、武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の跡地は、青空のもとで誰もが安心して楽しめる公園となり、三鷹研究所の跡地は、教育機関や企業の拠点として利用されています。
戦後80年を経た今、戦跡や平和モニュメントは、私たちに戦争の記憶を伝え、現在の平和を築いてきた先人たちの努力を思い起こさせてくれます。皆さんが、「平和まち歩き」で、これらのスポットを巡り、平和の大切さを感じてくださることを願っています。